平安時代以来、藤原五摂家が独占してきた関白。しかし、安土桃山時代になると慣例を破り、武家で初めて豊臣秀吉が関白に就任します。飽くなき権力欲を持つ秀吉が強引に奪ったように見える関白の地位、しかし、その切っ掛けになったのは、五摂家同士の役職を巡るトラブルでした。
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秀吉右大臣就任を縁起悪いと蹴る
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死します。
ここで、謀反人明智光秀を討ち果たしたのが羽柴秀吉で、秀吉はさらに敵対した柴田勝家も滅ぼし、大阪城の築城を開始し、名実ともに天下人の地位を極めていきます。
朝廷としても秀吉をそのまま放置してもおけず、内大臣に就任させました。これは、正親町天皇の出家後の住まい、仙洞院御所が秀吉の多額の援助で建設された事が大きく影響していました。
朝廷では紆余曲折の末に、
関白:二条昭実
左大臣:近衛信輔
右大臣:菊亭晴季
内大臣:羽柴秀吉
このような人事を組み、さらに右大臣の菊亭晴季の辞任を考慮にいれ、右大臣に秀吉を任命し、左大臣の近衛信輔(信尹)を関白にするという思惑を持っていました。しかし、秀吉がこの人事を蹴ります。理由は
「右大臣は主君信長が横死した縁起が悪い地位だから欲しくない!どうせなら左大臣の地位をくれ!」というのです。
関白を巡り近衛信輔と二条昭実が揉める
困惑した朝廷は、それならばと近衛信輔に左大臣を辞任するように求めます。しかし、信輔はこれにあからさまな不服を唱えました。
「近衛家では、左大臣を辞めた人間が関白になった前例がない」
つまり、信輔は左大臣を辞めさせられて無官になるのが嫌なので、その前に関白二条昭実に関白を譲ってもらいたいと言ったのです。
面白くないのは、二条昭実です。
「はじめての関白職を就任半年で降りた前例は二条家にはない」として信輔の要求を突っぱねたのです。
双方とも、持論を譲ろうとせず、議論は平行線をたどりました。そして、あろうことか、2人して秀吉に「どうすれば宜しかろう?」と相談したのです。いや、これはもう、やばい臭いしかしません。
秀吉激白「関白に就任しちゃうもんね~」
2人から相談を受けた秀吉は、右大臣の菊亭晴季、さらに参謀役の前田玄以と相談した結果。なんと自分が関白になると決めてしまったのです。
「信長公にも三職推任があったのだ、わしが関白に就任して何が悪い!」
と秀吉が思ったかどうか不明ですが、秀吉は、信輔の父、近衛前久の猶子(養子)となり関白宣下を受けます。
実は、近衛前久は秀吉に好意的ではありませんでしたが、
(成り上がりの猿めが、卑しい出自に箔をつける為、一時関白に就任するだけの事。飽きれば信輔に関白を譲るだろう…)このように考えて、秀吉を猶子にする事を認めたそうです。
しかし、秀吉はそんな甘い男ではありません、関白に就任すると天皇より豊臣の姓を賜り後陽成天皇の即位に合わせて、太政大臣に昇進。そればかりか天皇の第六皇子胡佐丸を猶子とし、将来的に関白の地位を譲る計画を立てます。つまり、豊臣家が関白を世襲しようと企んだわけです。
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