武田信玄と言えば、武田騎馬軍団です。
最近では、武田騎馬軍団については、存在しなかった説も多いですが、長篠の戦いでは馬防柵が使われている事から、周辺の大名に武田の騎馬が一定の脅威を与えていたと考えられます。
でも、そもそも、どうして武田というと騎馬なのでしょうか?そもそも、他の戦国大名にも騎兵は存在していたのに、どうして武田騎馬隊ばっかりがクローズアップされるのか?
今回は、そんな事を解説してみます。
この記事の目次
甲斐は古墳時代から名馬の産地
野生の馬は、アジア、アフリカの一部に分布し、生息地は温帯の草原からサバンナ、乾燥した半砂漠で繁殖しています。甲斐である現在の山梨県は高地であり、富士山麓と八ヶ岳山麓と甲府盆地という広大な草原が広がり、馬の生息に適した環境でした。
日本には、古墳時代の4世紀から5世紀にかけて、大陸から馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層(甲斐国造)に馬が受け入れられたと考えられています。実際4世紀後半代の馬歯が出土し、その裏付けがなされました。
中国の南船北馬のように、日本では、東国に馬の産地が多くて騎馬に長じており、西国は船の扱いに長けていたそうで、東国の甲斐は古くから騎馬の産地だったようです。
古くから騎兵がいた甲斐
西暦672年に発生した壬申の乱では、大海人皇子サイドの軍兵として姓名不詳の甲斐の勇者という騎兵が登場し、大友皇子サイドの武将である廬井鯨を弓で射たそうです。
甲斐の勇者は、甲斐の地方豪族層の出身と考えられ、飛鳥時代にすでに騎兵が甲斐に存在していた証拠と考えられます。
簡単に騎兵と言っても、それらを編成するには、騎馬を繁殖させ、面倒を見て訓練し、必要な時に戦場に出せるような技術者がいないといけません。また、馬を操作する馬具を作成する鍛冶の集団も必要で、甲斐にはそれらの要素が全て揃っていたのでしょう。
甲斐は騎兵を編成できる馬飼育の最先端地域だったのです。
坂道に強い木曽馬
武田騎馬隊の中核を為した馬は、木曽馬と考えられていますが、この木曽馬は、山間部で飼育されたために足腰が強く頑強です。木曽馬は、体の構造も後肢がx状で蹄が外向姿勢になっており、横への踏ん張りが効き。山の斜面の移動も苦になりません。
また、木曽馬は盲腸の長さが洋種馬に比較して30㎝ほど長く、太さも2倍あり、草のみでも飼育が可能です。これらの木曽馬の特徴は高地の山国で、土地がやせている甲斐の国情にピッタリ合致していました。
荷駄に使われた木曽馬
木曽馬に限りませんが、日本の在来馬は「側対歩」と言い、前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で移動します。この歩き方は、上下動が少ないため積み荷を乗せる事に適し、特に険しい山道での運搬には向いています。
このような特徴から甲斐の山間部では、荷物の運搬は、もっぱら馬の仕事であり、普段から一定数の馬が飼育されていたと考えられます。そのような馬が、合戦となると荷物の代わりに武者を乗せる事になったのでしょう。
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