自分が元凶だと忘れる孫権の最高峰大失敗「二宮の変」わかりやすく解説

2020年12月29日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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宴が生き甲斐 孫権

 

呉の大黒柱孫権の晩年の失敗の中でも最高峰にあるのが二宮(にきゅう)の変です。

 

後継者争いで悩む孫権

 

しかし、三国志演義では(呉みてーな地味な国の内紛(ないふん)にページは割けねえよカットだカット)と断腸(だんちょう)の思いで割愛(かつあい)されているせいか、あまり知名度がないマイナーな出来事として、詳しくは知らない三国志ファンも多いでしょう。

 

そこで今回は初心者でも分かるレベルに、二宮の変を分かりやすく斬ってみます。

 

切っ掛けは孫登の死

孫登

 

孫権は、自分の後継者を早めに長男の孫登(そんとう)に決定していました。しかし、西暦241年に皇太子の孫登が33歳で病死します。

 

孫和

 

この時、孫登は当時、孫権が寵愛していた王夫人の子の孫和(そんか)を自分の代わりに後継者とするように孫権に遺言しました。哀しみに暮れる孫権ですが、孫登の遺言通りに、孫和を皇太子に指名します。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

これで済んでいれば二宮の変は起きなかったのですが、ここから孫権は不可解な行動をします。

 

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孫和の異母弟の孫覇を魯王とする

孫権に気に入られる孫覇

 

孫和を皇太子に立てた後、孫権は孫和の異母弟の孫覇(そんは)を魯王(ろおう)に封(ほう)じます。そして、孫和も孫覇も平等に扱いだしたのです。

 

孫権の後継者になりたい孫覇

 

これにより、呉の家臣の中に、もしかして孫覇様が後継者になるのではないか?と考えるものが出て、孫覇の派閥(魯王派)が誕生。皇太子は孫和であるべきとする孫和派(南宮派(なんぐうは))との間でいざこざが発生しました。

 

 

孫権が2つの宮殿を建て派閥を分離 二宮の変勃発

洛陽城

 

孫権は、孫和派と孫覇派の対立を知ると、孫覇にも孫和同様の宮殿を建て、2つの派閥を遠ざける措置を取ります。しかし、これは逆効果でした。

 

孫覇

 

遠ざけられた事で、孫和も孫覇も相手の考えが分らなくなり、取り巻きの派閥の考えに影響を受けるようになります。特に孫覇は焚きつけられて、孫和の廃嫡(はいちゃく)まで考えるようになり、呉は、二宮の派閥がお互いを讒言(ざんげん)する混乱状態に陥ったのです。

 

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それもこれも、元はといえば、孫権が孫覇と孫和の扱いを平等にしてしまったせいで、孫覇派が勘違いをしたせいなのは明らかでした。まったく、あのアル中ヒゲダルマは本当にろくな事をしません。

 

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丞相不在、孫魯班と王夫人の対立も火に油を注ぐ

陸遜

 

二宮の変の最中、243年、19年間も丞相を務めた顧雍(こよう)が76歳で死去します。後任の丞相は陸遜(りくそん)と決まりますが、陸遜は荊州統治の任を解かれないので建業に入れず、二宮の変を強力なリーダーシップで調停する人物は不在となりました。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

おまけに、孫和派と孫覇派の戦いには、孫和の母王夫人(おうふじん)と、孫権の娘で孫覇を推す、孫魯班(そんろはん)の女の対決も絡んでいます。孫権の後継者をどちらが継ぐかで、2つの派閥の生死は決まります。

 

後悔する孫権

 

何としても勝たねばならない状況で抗争は熾烈化、孫権は二人の対立に気づいて両派閥の往来を禁止しますが、すでに手遅れでした。

孫和派と孫覇派

三国志のモブ 反乱

 

では、孫和派と孫覇派には、どんな人々が存在していたのでしょうか?

 

孫和派 孫覇派
陸遜(陸胤を通じ孫和に擁護を頼まれるが孫権の怒りを買い、手紙で問責され憤死) 全琮(ぜんそう)(孫魯班夫、讒言フォーを使い孫和派名士の失脚を狙う)
諸葛恪(孫和の正妻の張氏と舅と姪の関係) 歩騭(ほしつ)(同族に孫魯班の母歩氏)
顧譚(こたん)(陸遜の甥、全奇の讒言で交州へ流罪) 孫弘(張休を讒言し殺害)
朱拠(しゅきょ)(妻は孫権の娘孫魯育、孫弘の讒言により自害させられる) 呂岱(りょたい)(長生き爺さん)
滕胤(とういん)(諸葛恪と縁戚) 呂拠(りょきょ)(孫峻と縁戚)
朱績(諸葛恪とは犬猿の仲) 孫峻(孫和を許そうとした孫権を諫め孫覇派に貢献)
丁密(ていみつ)(丁固) 全奇(ぜんき)(全琮次男・讒言イエロー・後処刑)
吾粲(ごさん)(孫和の傅役・孫権に処刑される) 呉安(ごあん)(讒言レッド・後に処刑)
屈晃(くつこう)(棒叩き百の刑罰を受け郷里に追放) 孫奇(そんき)(讒言ブルー・後に処刑)
陳正(ちんせい)(孫和の赦免を孫権に願い一族皆殺し) 楊竺(ようじん)(讒言ピンク・後に処刑)
陳象(ちんしょう)(孫和の赦免を孫権に願い一族皆殺し) 諸葛綽(しょかつたく)(諸葛恪長男・二宮の変後、父に毒殺)
張純(孫和の斜面を願い、孫権の怒りを買い幽閉、後市場で処刑) 孫魯班(当初は孫覇を推すが、悪事発覚を恐れ、夫の一族、全尚の娘を孫権が寵愛した潘夫人の息子の孫亮に嫁がせ皇帝にする事を進言し実現させる)
張休(孫和の義父、孫弘に讒言され殺害)
顧承(こしょう)(全奇の讒言で交州へ流罪)
顧悌(こてい)(朱拠とつるんだ行動が多い)
陸胤(りくいん)(孫権に拷問にかけられる。露出狂)

 

ざっと、こんな感じですが、関わった人は、大体、ろくでもない目にあってますね。

 

孫覇派の巻き返し

嫉妬する孫魯班

 

当初は孫和派に押されていた孫覇派では、悪女と名高い、孫魯班が巻き返しを開始します。ある時、孫権が病気になると、孫魯班は孫和が妻の叔父である張休の屋敷に招かれた事を利用し、「孫和は祈祷もしないで妻の実家で謀議を巡らし、母の王夫人も孫権が病気で死ねば、孫和が皇帝になると喜んでいます」と讒言しました。

 

娘には甘い孫権は裏も取らずに讒言を信じ、王夫人の下から足を遠ざけ、王夫人は憂憤のあまり死去します。これにより、孫権の孫和への寵愛も衰え、ここぞとばかりに全琮の次男、全奇を中心とする讒言(ざんげん)4の讒言攻撃が始まり吾粲や顧譚、顧承をはじめとして張休・姚信ら孫和派の重要人物が左遷・流刑になります。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

陸遜も孫権に執拗に難詰され憤死しました。これにより、勢力的に優位に立った孫覇派は、派閥トップの全琮が右大司馬、歩隲が丞相になるなど主導権を握りますが、悪い事は出来ないもので2人は相次いで亡くなり、勢力バランスは元に戻ります。

 

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飽きた孫権により喧嘩両成敗

後継者争いを放置する孫権

 

孫権は、自分が元凶であるのも忘れ、孫和派と孫覇派の抗争に飽き、孫魯班や孫俊などの勧めもあり、

 

孫亮を後継者として指名する孫権

 

末子の孫亮を皇太子にする事を決定。

命がけで筋を通す義理に熱い朱拠

 

こうして、西暦250年、孫権は要らなくなった孫和を幽閉します。この処置に反対した孫和派の屈晃と朱拠に孫権は激怒して棒叩き百を加え屈晃は郷里に帰らされ、朱拠は左遷され任地に赴く途中、孫弘に自殺を強要され死亡します。同年8月太子孫和は廃され、魯王孫覇は自殺を命じられました。

 

呉の孫権は皇帝

 

孫覇派で、積極的な讒言工作を行っていた讒言4の全寄・呉安・孫奇らを孫権はことごとく誅殺。数年前に処刑された楊竺は死体が長江に捨てられる恥辱を受けます。こうして、ひたすらに不毛な二宮の変は、ようやく終息を迎えるのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

孫和派と孫覇派の人物の繋がりを見ていると、全琮や歩隲のような豪族が孫覇を担いで、孫和を担ぐ陸遜、朱拠、顧譚のような豪族を追い落とそうとする二宮の変の裏の事情が見えてきます。

 

実際には、豪族間のキャスティングボード争いで、誰が皇帝になるかは、どうでもよかったとすれば、孫和や孫覇も江南の豪族の抗争に巻き込まれた被害者であるとも言えますね。

 

参考文献:正史三国志

 

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二宮の変

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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