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北方謙三先生とはどんな人?日本を代表するハードボイルド作家の経歴や原点に迫る


 

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北方謙三風ハードボイルドな孫策

 

北方謙三(きたかたけんぞう)先生は日本を代表するハードボイルド作家として知られ、近年では『三国志』『水滸伝』などの歴史小説を多く世に送り出し、2000年からは直木賞の選考委員も務められています。今回は、そんな北方謙三先生の青春時代を中心に、その作家としての原点に迫っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北方謙三先生の幼少時代

 

北方謙三先生は1947年に佐賀県唐津市に生まれました。父は貨物船の船長であり、一年のうちほとんどは家族と離れ離れの生活を送っていました。そんな中、北方謙三先生の父は航海から帰るたびに、父に会うために横浜に行っていた幼き日の北方先生に本を買い与えていました。

 

この幼少時の読書経験が、北方謙三先生の作家としての原点であったと言われています。北方謙三先生はしばしば講演会や対談などで、自らの小説家としての原点に、幼少期に父から与えられた本を読んでいたことを挙げています。

 

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北方謙三先生の青年時代

 

唐津に生まれた北方謙三先生でしたが、貨物船の船長であった父の仕事の影響で川崎に移ります。その後は、東京都内の私立中学・高校に進学します。

 

 

中高生時代の北方謙三先生は筋金入りの文学少年となり、『ロビンソン・クルーソー』や『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだことをきっかけにアメリカ文学に傾倒します。

 

 

その後も『世界文学全集』からドストエフスキーやヘミングウェイなどを読破するなど、読書に耽溺する青春時代を送ります。しかし、北方謙三先生に転機が訪れたのは高校3年生のときでした。高校3年生の時に北方謙三先生は肺結核に感染してしまいます。

 

北方謙三先生が高校生であった1960年代にはすでに肺結核は不治の病ではありませんでしたが、結核に罹患したことは北方先生に「死」というものを強く意識させ、これが後の創作活動に影響を与えたとしばしば北方謙三先生は対談で語っています。

 

また、肺結核に感染したことで北方謙三先生は大学進学や就職への道が絶たれ、大きな挫折を経験します。しかし、北方先生は自分で健康診断書を書き換え、中央大学に進学します。少し前までは死に至る病として恐れられていた結核を経験したことで、北方謙三先生は社会人としての道を諦めます。

 

そして、小説家には結核持ちが多いことを知り、北方謙三先生いわく、「結核にかかった自分は作家としてはエリートだ」とポジティブに考え、小説家としての道を進むことになります。このように結核という大病を経験したことが、豪放磊落(ごうほうらいらく)な北方謙三先生の作風の原点となったのですね。

 

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北方謙三三国志

 

 

北方謙三先生の駆け出し時代

 

こうして小説家の道を進んだ北方先生は、大学在学中の1970年に雑誌『新潮』でデビューを果たし、「大江健三郎(おおえけんざぶろう)以来の学生作家」と高い評価を受けます。その後、1973年には大学を卒業し、アルバイトをしながら小説家としての活動を行います。

 

しかし、残念ながら小説家になってすぐの頃はあまり売れなかったらしく、北方先生いわく床から天井に届くほどの原稿を書いても、掲載されるのはごくわずかでした。学生作家として華々しいデビューを飾った北方先生のプライドはこうしてへし折られてしまい、北方先生は人生において二度目の挫折を経験することとなりました。

 

そんな北方先生が挫折を経験してもなお文筆活動を続けられたのは、父の言葉のおかげでした。北方先生の父は息子が小説家という職業に就くことをあまりよく思っていませんでしたが、「男は10年同じ場所にじっとしていられるかどうかによって、本物かどうかが決まる」という言葉を息子にかけたのです。

 

これ以降、北方先生はこの父の言葉を胸にがむしゃらに進んでいくことになります。

 

こうして北方先生はほぼ1か月に1冊を書き上げるという、「月刊北方」と呼ばれるほどの凄まじいベースで作品を書き上げていきます。また、編集者のアドバイスを受け、当初の純文学からエンターテインメント小説に路線を変更しました。

 

 

これが功を奏し、1981年に『弔鐘(ちゅうしょう)はるかなり』でついに単行本デビューを果たします。この時、1970年のデビューから11年が経っていました。

 

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ハードボイルドの騎手、そして歴史小説へ

 

単行本デビューを果たした北方謙三先生は一気に人気作家となり、持ち前の速筆でヒット作を次々と送り出します。そして、いつしか北方先生は日本を代表するハードボイルド作家となっていました。

 

 

そして、1989年には南北朝時代を舞台とした『武王の門』を発表して歴史小説の世界にも進出し、『三国志』『水滸伝』などの大作を世に送り出し、さまざまな文学賞を受賞しました。

 

 

2000年には直木賞の選考委員となるなど、文壇の重鎮としての地位を確固たるものとしていきました。現在も北方先生の創作意欲は衰えを見せず、2018年からはモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンを主人公とした『チンギス紀』の連載を行っています。

 

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三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか?

こうしてみますと、北方謙三先生も波乱万丈の人生を送りつつも、その中で挫折を乗り越えて今の地位を築かれたのですね。挫折とそれをがむしゃらに乗り越えていった人生経験が、苦悩しながらも強く生き抜いていく北方作品に登場する漢たちの生きざまに反映されているのですね。

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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