中国歴史上において、佞臣と呼ばれる者たちはかなりいます。その中でも、佞臣の代表格と言えば……秦檜の名が挙げられるのではないでしょうか。筆者は彼を中学時代に社会の時間で習い、少しばかり衝撃を受けたのを覚えています。
今回はそんな秦檜について、そして秦檜が佞臣と言われるようになった理由の一つでもある岳飛について、お話したいと思います。
岳飛という人物
まずはちょっと岳飛についてお話しておきましょう。岳飛は農民出身でありながら文武両道を地で行く優秀な人物であり、また当時としては珍しく、戦いの中で部下たちに略奪行為を許さなかったとされる高潔な人柄を持つ人物でもあります。
そんな彼が生まれたのは宋の時代。異民族である「金」によって中国の北半分は制圧され、皇族たちが連行されて宋(北宋)は一度滅びました。そこで唯一捕まっていなかった皇族の一人、高宗が宋を立て(南宋)、岳飛はそこで華々しい活躍をしていくことになります。
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岳飛の活躍
三国志演義で劉備たちが義勇軍に参加してから名を挙げていくように、岳飛も義勇軍に参加してから名を挙げました。この頃はまだ金を押さえ込めていたのですが、名将であり、同時に老将でもあった宗沢が亡くなると金軍は南下してきます。
この際に高宗は逃亡するも、岳飛は私兵たちを率いて戦い、しかも六戦六勝と完封勝利。また戦いに勝利してもそこかしこで略奪行為をすることのないように取り締まったとも言われ、岳飛の人気はうなぎのぼりとなりました。後に高宗は岳飛に「精忠岳飛」と書いた旗を与えて、その功績を称えたのです。
しかしこの時、後の岳飛に悲劇をもたらす人物が動いていました。
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秦檜という人物
では秦檜について、後の部分も含めてざっくりとお話しましょう。秦檜もまた金に連れて行かれていたのですが、岳飛が活躍すると同時期に妻と共に金を逃れ、高宗の元に表れます。彼はそのまま宰相に任命されると、金との講和を行おうとしました。
これは岳飛が活躍したことで、金の主戦派が失脚、和平派が動きやすくなり、和睦を行う道が開けたためです。しかしこの講和の条件には「河南地方一帯を金に譲渡する」という、金にとってかなり有利な条件で講和が結ばれようとしていました。
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屈辱の講和
その一方で岳飛は韓世忠と共に金相手に戦い、連戦連勝をマークしていきます。しかし稀代の英雄も兵糧不足には勝てず、開封に至るかと言うところで金の主戦派トップが亡くなり、講和が進められました。この時に「講和するには軍閥は邪魔」と言わんばかりに軍は解体。
韓世忠は隠居して悠々自適に暮らすも、岳飛はこれに納得せず。それどころか岳飛は軍の解体にも同意せず、果てに高宗が一日に十二回も召還の金字牌を送ったため、これに岳飛は無念のまま同意せざるを得なくなったのです。
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岳飛の悲劇
そんなある日、秦檜の妻が夫の前で暖炉の灰に「虎を捕らえるは易く、放つは難し」と書きました。これが何を意味するか悟った秦檜、岳飛とその家族、軍の幹部を謀反人として投獄。
岳飛は自白を強要されて辛い拷問を受けるも、「天は全て知っている」と記して自白を拒否し続け、最後は秦檜の指示によって絞殺され、英雄の生涯は幕を閉じることとなります。
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