菫卓が洛陽を焼き払い、西の長安に遷都した辺りから、反菫卓連合軍の存在意義は薄らいできていました。
洛陽で玉璽を手にいれた孫堅を、袁紹が劉表を使って暗殺し、玉璽を奪おうとしたセコイ計略も、義を掲げて集まった諸候を呆れさせる事でしたが、話はここで終わりませんでした。決定的な連合軍崩壊は、あろうことか連合軍主力の二大武将の確執が引き金になっていたのです。
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反菫卓連合軍の崩壊のきっかけ
それは漢王朝の名門である、袁紹と袁術という従兄弟同士の勢力争いから始まっていました。4代に渡り、三公という漢王朝の重職を輩出した袁家の名門の二人ですが、袁紹は母親の身分が低い庶子の出でした。一方の袁術は、母の家柄も高いエリート中のエリートで、本来ならば、袁紹より一歩先を行く存在です。
袁紹と袁術の違い
しかし、袁紹は威厳のある風貌であり、身分をひけらかさない謙虚な性格であった為に、袁術より人望がありました。そこでプライドが高い袁術は、袁紹の弱点である出自の低さを公衆の面前で何度も馬鹿にしたのです。
まあ、、そんな事をするから人望が無くなるんですが、袁紹は、これに大人の対応をしつつも内心では恨んでいたようです。このような二人ですから、最初から仲が良いとは言えない状態でした。
袁紹と袁術が対立したきっかけはどんな理由?
さて、袁紹は、反菫卓連合軍のリーダーに祭り上げられますが、菫卓の討伐には熱心ではなく、自分の力を背景にして、弱小諸候から領地を脅し取ったりしています。副リーダーである袁術も似たようなものなんですが、、、この二人が最初に対立したのは、献帝に対抗して新しい帝を立てようと袁紹が画策した時です。
袁紹は、劉虞(りゅうぐ)という幽州牧を勤めた人物を新しい帝として擁立しようとします。
劉虞は、先祖を光武帝に持つ由緒正しき人物であり、皇帝の資格は充分にありました。
袁術・曹操は猛反対、その理由とは?
ところが、これに袁術や曹操が猛烈に反対してきました。すでに献帝が擁立しているのに、新しい皇帝を立てるのは、漢王朝を分裂させる暴挙であると反対したのです。元々、袁紹は、献帝の異母兄であり、菫卓に廃されて殺された少帝を擁立した外戚何進の配下だったので、献帝を認めていませんでした。
なので、反対されても劉虞を立てるつもりだったのですが、当の劉虞が皇帝になるのを辞退したので、計画は流れました。
実は袁術は、言葉とは裏腹に、すでに漢王朝を見限っていて、「献帝が死んだら漢王朝など滅びてしまえばいい」と日頃から考えていたと言います。
袁紹と袁術の考え方の違いとは?
つまり袁紹が王政復古によって権力を握ろうと考えたのに対し袁術は革命志向だったのです。従兄弟同士とは言え、二人は水と油の思考的傾向を持っていました。いずれ、両者が対立するのは時間の問題だったと言えるでしょう。
両者の対立は更に加速する
西暦191年、袁紹は洛陽に入った孫堅の勢力を削ぐ為に、先に袁術が任命した孫堅の櫲州(よしゅう)刺史の地位を無視し、周昂(しゅうこう)という人物を櫲州刺史に任命してしまいます。もちろん、これを孫堅が認める訳もありません。孫堅を櫲州刺史に任命した袁術も自分の面子を潰されたとして、袁紹とは急速に敵対関係に入っていきます。
これより以前、袁紹に弟の公孫越を殺された公孫瓚は、恨みから袁術と同盟を結び、一方の袁紹は、孫堅に攻撃された劉表を仲間に引き込んで紛争を繰り返すようになります。このような事から、他の諸候も利害関係からお互いに争うようになり菫卓を倒す為に終結した連合軍は雲散霧消してしまったのです。
従兄弟同士仲が悪いのが、群雄割拠の理由になる、、流石中国スケールが大きい従兄弟ケンカですね(笑)
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