142話:孫権二宮の変を招き、陸遜憂国の念を抱き憤死する【全訳三国志演義】




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ほっぺたに矢を受ける孫策

 

西暦200年、刺客の襲撃により無念の最後を遂げた孫策(そんさく)の後を継いで以来、孫権は押し寄せてくる危難を江南の豪族の力を借りて何とか乗り越えていました。

 

孫亮を後継者として指名する孫権

 

西暦229年、魏や蜀に遅れて皇帝に即位し三国の一角を宣言した孫権ですが晩年を迎えた頃に思わぬ落とし穴が待っていました。それが孫呉を二分した後継者争い二宮(にきゅう)の変です。




皇太子、孫登の死

孫登

 

孫権は黄龍(こうりゅう)元年(229年)帝位に就くと皇太子として長子であり聡明さを謳われた孫登(そんとう)を擁立します。しかし、孫権が期待を込めていた孫登は赤烏4年(241年)5月に33歳の若さで病死してしまいました。

 

孫和

 

死の床にあった孫登は自分が死んだ後の後継者争いを心配し、当時孫権が寵愛していた王夫人の子の孫和(そんか)を太子に推して亡くなります。孫権としても最愛の太子の遺言を守り、赤烏(せきう)5年(242年)正月に孫和を皇太子に立てました。

 

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対立する孫和と孫覇

孫権に気に入られる孫覇

 

ところが、ここから孫権は不可解な行動に出ます。

 

同年8月、孫和の異母弟(いぼてい)孫覇(そんは)魯王(ろおう)に立て、2人を対等に遇し始めたのです。次の孫呉政権を担う人材が2人現れた事で孫呉の重臣たちで立身出世を望む者たちが孫覇に注目するのは無理もない事でした。

 

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

大帝(たいてい)は孫和様を皇太子から下ろし、ゆくゆくは魯王(孫覇)を立てるつもりではないか?

魯王は、いわば奇貨だ。今のうちに買っておくに越したことはない…)

 

孫覇

 

こうして、一部の重臣は孫覇の取り巻きとなり、必然的に孫和と孫覇の両陣営で誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)合戦が開始されました。それを聞いた孫権は、さらに不可解な行動に出ます。

洛陽城

 

両陣営を引き離す為に孫覇に別の宮殿を建ててそれぞれに幕僚をつけさせたのです。結果、両陣営の相手に対する憎悪は激しくなりました。

 

特に孫覇は孫和と会う事も出来なくなり、取り巻きから一方的に孫和の悪口を吹きこまれ、孫和のせいで自分は皇太子になれないのだと、激しい嫉妬心を抱くようになります。

 

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【呉と孫権が抹殺したい事件・二宮の変】
二宮の変

 

丞相顧雍死去、陸遜建業に入れず

陸遜

 

翌年の赤烏6年(243年)11月、19年間も丞相の任にあった顧雍(こよう)が死去しました。後任には呉の名将、陸遜が任命されますが、孫権は荊州統治という役目を外さなかったので陸遜は建業に来られません。

 

こうして、建業に丞相が不在というまとめ役を欠いた状態が続き呉は不安定化します。また、後宮では孫権の娘で、全琮夫人の孫魯班(そんろはん)が孫覇を支持し、孫和の生母である王夫人と対立するようになりました。

 

嫉妬する孫魯班

 

孫和と孫覇が和睦していないという事実を知った孫権は、2人と群臣の往来を禁止しますが、孫覇派は、より先鋭化して太子廃立の動きを強め孫和派はこれを防ごうとします。この頃には孫覇が取り巻きに吹きこまれて孫和廃立に能動的に動き始め、孫呉の群臣は真っ二つに割れます。

 

諸葛恪

 

孫和サイドには、陸遜、陸胤(りくいん)諸葛恪(しょかつかく)顧譚(こたん)顧承(こしょう)顧悌(こてい)朱拠(しゅきょう)朱績(しゅせき)滕胤(とういん)丁密(ていみつ)吾粲(ごさん)屈晃(くつこう)陳正(ちんせい)陳象(ちんしょう)張純(ちょうじゅん)張休(ちょうきゅう)が参加。

 

孫峻

 

孫覇サイドには全琮(ぜんそう)全奇(ぜんき)歩騭(ほしつ)孫弘(そんこう)孫峻(そんしゅん)孫奇(そんき)呂岱(りょたい)呂拠(りょきょ)呉安(ごあん)楊竺(ようじく)諸葛綽(しょかつたく)が参加しました。

 

孫峻の専横

 

こうして継承者争いだった二宮の変は、豪族の勢力争いも絡んだ大疑獄へと発展していきます。もはや、どちらが勝利しようと敗者の側で多くの血が流れるのは免れようもなくなりました。

 

最初に動いたのは、悪女として知られる孫魯班です。孫和母子を排除したい魯班は、孫権が病気になった時に孫和が妻の叔父である張休の屋敷に招かれていた事を利用。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

回復した孫権に

「孫和は親不孝にも陛下の病気平癒(びょうきへいゆ)祈祷(きとう)もせずに妻の実家で皇帝になる準備をしています」と讒言(ざんげん)

 

さらに生母の王夫人も孫権が病気になった事を喜んでいると讒言しました。娘に甘い孫権は、讒言を真に受けて王夫人を遠ざけ、王夫人は憂いのあまりに病死し、孫権の孫和に対する寵愛も衰えます。

 

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忠臣、陸遜の憤死

呉の孫権は皇帝

 

この頃、孫覇派の楊竺がしきりに孫権に孫覇の皇太子擁立を訴えていました。これに対し孫和の守役、吾粲は、孫権に長幼の序を説き孫覇を中央から遠ざけ夏口の指揮官にすべしと進言したり楊竺を中央から排除する事を上奏します。

 

しかし、これを憎んだ孫覇や楊竺は孫権に讒言し吾粲は投獄されました。

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

ある時、孫和は楊竺が孫権に謁見(えっけん)し孫覇の才能を()め称え、はやく孫覇を皇太子にするように勧め孫権が同意したのを立ち聞きします。今、廃嫡されれば命は危うくなると恐れた孫和は、陸胤(りくいん)()し出して危機を伝え武昌の陸遜に助けを求めました。

 

武昌から動けない陸遜ですが、建業で孫和と孫覇が激しく争っている事は知っており、孫覇派の全琮を激しく批判する手紙を出していました。

陸遜

 

「あなたは、名声を得ても終生謙虚だった金日磾(きんじつてい)を手本とせず、次男の全奇君を庇い、政治ごっこにうつつを抜かしておられるようだ。皇太子は、すでに孫和様に決定したのであり妄りに騒いではなりません。このままでは一族全てに災いが降りかかりますぞ」

 

全琮は陸遜に罵倒されて恨み、陸遜を追い落とそうと画策するようになります。

 

陸遜

 

さらに、この頃、陸胤から孫和が廃嫡されるかも知れないという手紙を受けた陸遜は、もはや黙ってはいられぬと、孫権に上奏し、嫡子と庶子の区別をつけるように諫言。さらに建業に乗り込んで孫権を直接説得する構えを見せます。

 

これに対し孫権は、楊竺と2人で内密に話した内容が外部に漏れている事を問題視し、情報を漏らした人間を探すように命じます。

 

陸胤は、このままでは陸遜に累が及ぶと考え、楊仁が密談を漏らしたと嘘の供述をしました。

 

孫権に詰問された楊竺は、最近、武昌に行ったのは陸胤のみであり陸胤が盗み聞きしたのだと申し開きしますが、疑心暗鬼に駆られた孫権は、陸胤と楊竺を捕らえ拷問に掛け、拷問に耐えきれなくなった楊竺は自分が漏らしたと認め処刑されます。

 

泣きながら冤罪を訴えるも処刑される司馬瑋

 

ところが孫権の疑念は晴れず、孫権は陸遜に執拗に譴責(けんせき)の手紙を送りつけ陸遜の甥である顧譚、顧承、姚信(ようしん)は孫和派として流罪にしました。

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

すでに63歳になっていた陸遜は一族の流罪と孫権の仕打ちに耐えきれず、思い悩み、欝々と過ごす日が多くなり、ついに病に臥して憤死します。

 

陸抗

 

一族の多くが二宮の変に巻き込まれた陸遜ですが、彼には羊祜と並んで名将と称される息子の陸抗(りくこう)が残っていました。陸遜に掛けられた濡れ衣は陸抗が全て説明して晴らし、後に孫権を謝罪させています。

 

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共倒れする両派

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

陸遜の死により、赤烏9年(246年)全琮が右大司馬、歩隲が丞相に任命され、孫覇派はついに主導権を握りました。しかし、翌年には歩隲が赤烏10年(249年)には全琮が、まるで陸遜の呪いかのように相次いで病死、孫和派と孫覇派は、再び醜い争いを再開します。

 

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

この頃になると孫権は孫和にも孫覇にも嫌気が差し始め、末子の孫亮を寵愛するようになりました。

 

孫亮を支える諸葛恪と孫峻

 

夫の全琮を失った孫魯班は、孫権に悪事が露見する事を恐れ、孫覇派から距離を置き、孫権の寵妃の潘淑(はんしゅく)とその子孫亮に取り入り、さらに夫の一族、全尚の娘を孫亮に嫁がせる事に成功、災いを免れる事に成功します。こうして、期せずして後継者選びの憂いが消えた孫権は喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)を口実に、孫和を廃嫡して幽閉し、孫覇には死を命じました。

 

三国志のモブ 反乱

 

孫権は孫和幽閉に反対した孫和派の屈晃と驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の朱拠を棒百叩きの刑に処し、朱拠は左遷される途中に孫覇派の孫弘に自害させられます。さらに孫和の処分に反対する十数人の役人が処刑や放逐の罪を受けました。

 

李術にブチ切れる孫権

 

孫覇が自殺すると、孫権は積極的に孫覇擁立に関係した全寄、呉安、孫奇らをことごとく誅殺(ちゅうさつ)します。こうして多くの人材が孫権の手で闇に葬られていきます。多くの人間の人生を狂わせ、憎悪を振りまいた二宮の変は、成人した2人の皇太子候補を失い、僅か7歳の幼帝、孫亮を残して終わったのでした。

 

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全訳三国志演義 kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

50年もの長期政権を実現した孫権ですが、最後の10年間でこれまで築き上げた業績の大半を破壊してしまいました。孫権の愚行により、呉は王族と豪族の権力争いが激化し没落していくのです。

 

さて、次回の全訳三国志演義は、諸葛亮を倒した司馬懿が最後の時を迎えます。真の乱世の奸雄は、生涯の最後に何を思うのか?請うご期待!

 

※三国志演義に二宮の変の描写はありませんが、話を分かりやすくするためオリジナルとして挿入しました。

 

参考文献:三国志演義

 

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【孔明没後も続く!はじ三三国志演義全史】
全訳三国志演義

 




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