呉の大黒柱孫権の死の混乱を狙い、呉の戦略上の要衝、東興の堤防の左右にある城を攻撃した司馬昭を総大将とする30万の魏軍。しかし、左右の城の守備は固くさらに魏の将軍、胡遵の油断で僅か3000の丁奉軍の奇襲を許し28万の魏軍は総崩れになり大敗牧を喫しました。
ところが、この大勝利に気を良くした諸葛恪は、逆に魏の領地に攻め込もうと難攻不落の合肥新城に攻撃を仕掛けて大敗してしまうのです。
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諸葛恪が魏の攻略を宣言
諸葛恪は兵を率いて東興まで進撃し全軍を集めて苦労をねぎらいました。そして、主だった将軍達を集めて、こう切り出します。
「司馬昭めは負けて北へ帰って行く、災い転じてとは、まさにこの事じゃ魏の戦力が回復しない間に魏の領地に攻め込み我が国の版図を拡大するぞ」
諸葛恪は急いで蜀に使者を派遣して、姜維に共同作戦を申し入れ「出兵して敵の北を攻めてくれ、うまく行けば天下を分け取りしよう」と告げると、20万の大軍を繰り出して合肥新城に向けて出陣します。
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不吉な白霧が呉軍の行く手を阻む
ところが、諸葛恪が軍を進めると、突如として地面から白い霧が立ち上り、たちまち呉の将兵は隣の兵士の顔も見えない濃霧に包まれました。
ここで、蔣延という家臣が「これは白虹という現象で兵を失う兆しで御座います。魏は破れず遠征は必ず失敗しますから、大人しく建業に引き上げるべきです」と諸葛恪に進言しました。
すると、最初からケチをつけられた諸葛恪は猛然と怒り出し「なにゆえに、これからと言う時に不吉の事を申し鋭気を挫くのか!この者を打ち首にせよ」と命じます。
周囲が「これから戦という時に味方を斬るのは不吉でございます」と助命嘆願したので、諸葛恪は打ち首は思い留まりますが、蔣延は平民に落されて軍を追放されました。
諸葛恪が構わずに兵士を急き立てて進むと、冠軍将軍丁奉が
「魏の国の要害は合肥新城でござる。ここを落せれば司馬師も肝をつぶす事でしょう」と進言し、諸葛恪も「よいぞ、よいぞ」と賛成して合肥新城を包囲する事にします。
いいんですかね?20万の軍の総大将がこんな近場でピクニックするみたいな軽い決断で…
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丁奉の提案を丸飲みし合肥新城を包囲
呉の大軍が合肥新城を包囲した時、城の総大将は張特という人物でした。張特はただちに城門を閉じて、呉の挑発に応じずに徹底した籠城戦に入ります。
同時に新城からは早馬が洛陽に派遣されました。
司馬師の主簿、虞松は
「諸葛恪は合肥新城を包囲しましたが、彼とは事を構える必要はありません。呉は大軍を率いてきたわりに兵糧が少なく、持久していればおのずと兵糧がなくなり退却します。その退却の時を狙って攻撃すれば大勝利できましょう。さりながら呼応して来たから攻め込んでくる蜀軍は厄介。そこは備えねばなりませぬ」
このように進言し、司馬師も「いかにも」と頷きました。
そして、司馬昭に郭淮の援護を命じて姜維に備えさせ、毌丘倹と胡遵には兵を率いて合肥新城の救援に向かわせたのです。
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諸葛恪、百日ルールに欺かれる
呉軍が合肥新城を包囲して3ヶ月が経過しましたが、城はびくともしません。兵糧がとぼしくなってきた諸葛恪は焦り、将軍達を招集して「力の限り城を攻めよ、怠る者は首を打つ」と厳命します。必死になった呉軍は、ようやく城の東方の隅をまもなく取れる所まで来ました。
ここで張特は一計を案じ、ひとりの口が達者な男を選んで、自分の偽物とし城内の戸籍や帳簿を持って呉の陣内に赴かせます。
「合肥新城の総大将、張特にござる。総大将閣下にお会いしたい」
諸葛恪は城内から張特が戸籍と帳簿を持ってやってきたと聞き、面会すると張特に成りすました偽物は言いました。
「魏国の掟では、城主は敵に攻められても百日持ちこたえて降伏すれば無罪というモノがあります。すでに閣下が新城を攻めて90日余り、あと10日も経過しないで私は降伏しても罪を免れる事が出来ます」
諸葛恪「それで、貴君はわしにどうせよと言うのか?」
「されば、閣下におかれましては、後数日、包囲を解いて城外で待機して頂きたい。籠城から、ちょうど百日目に私は全将兵を率いて貴公に降伏いたします。これならば不毛な損害を防ぐ事が出来、お互いに悪い話ではないと思いますが?」
「ふうむ…考えておこう」
等といいながら、諸葛恪は内心有頂天で男の話を信じ込んでしまい、呉軍に対して数日間、攻撃の停止を命じて軍を引き揚げさせました。
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