公孫瓚は、三国志の序盤では、反菫卓連合軍の将軍として、劉備、関羽、張飛の桃園三兄弟を配下として従えて登場します。実は劉備は若い頃、盧植という人物の弟子で公孫瓚は兄弟子だったという伏線があり、その縁で公孫瓚の配下として参戦しているのです。
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三国志演義の公孫瓚はどんな人物?
公孫瓚は、容姿端麗で威厳のある武将として描かれていて、異民族から選抜した機動力抜群の騎兵を率いて、白馬将軍と美称されるなど格好いい扱いです。
正史の公孫瓚はどんな人物?
ですが、それは三国志演義だけの話であり、正史の公孫瓚は、野心の達成の為なら、なんでもやるという悪党なのです。公孫瓚の最初のライバルは、幽州牧である劉虞でした。劉虞は、後漢の建国者である光武帝の末裔の名門の家柄です。また、彼は温厚で質素、真面目で誠実な人物として、庶民の声望が厚い人物でした。
劉虞と公孫瓚の違い
劉虞は、烏丸(うがん)という異民族を鎮圧する使命を受けていますが力攻めを嫌い帰順した烏丸族に贈り物をするなどして、懐柔策を取り、烏丸もこれに服したと言われます。一方の公孫瓚は、同じ幽州を拠点にしていましたが、、「異民族は力で制圧しないと漢王朝を侮る」という好戦的な主張をしていました。
公孫瓚の悪党ぶり
それはそれでいいですが、自身を正当化する為に、劉虞が烏丸族に送った贈り物を毎回強奪していたようです。劉虞からすると、「お前、、邪魔すんなよ」ですが、劉虞が抗議しに来ると公孫瓚はいつも仮病を使って会いませんでした。どうでしょう?公孫瓚の性格の悪さが見えませんか?
劉虞、遂に公孫瓚を攻める!
劉虞は、いずれ公孫瓚が自分を狙ってくる事を考えて、先手を打ち、心服させた烏丸族を糾合して数万の兵力を組織して公孫瓚を攻撃します。それを知った公孫瓚は、城に籠って民衆を盾にして対抗します。おお、これは汚い、あまりにも汚い戦法です(笑)
劉虞は、人民を慈しむ君子として通っているのでこれを攻めあぐねてしまいます。
劉虞敗れる
公孫瓚は、こうして劉虞の矛先を封じて、機動力が高い騎兵を多用、ゲリラ戦を展開して劣勢を挽回して遂に劉虞を捕えてしまいます。捕えられはしたものの、庶民は劉虞を慕っているので助命を嘆願します。徳は積んでおくもんだなと思いますが、公孫瓚には通じません。
公孫瓚は劉虞を市中で引き回して侮辱した上で、
「皇帝になれるような人物なら真夏でも雨を降らす事が出来よう」
と助命の為の無理難題を吹っ掛けます。
劉虞はどうなったの?
時は真夏です、雨は降らず、劉虞は処刑されました。直後に、長安では菫卓が暗殺され、一時王允による漢王朝の復活が起きていて献帝は、劉虞を北方、六州の太守に任命します。
公孫瓚の悪役ぶりは更に磨きを増す
そこで、公孫瓚は、死んだ劉虞の評判を落とす為に、
「劉虞は皇帝になろうという野心があった為に自分が討伐した」
と嘘八百を並べて、劉虞を中傷しました。
この行動により、庶民の支持を失った公孫瓚は、幽州の支配者の地位を手にいれると、豪華な生活に耽っていきます。
袁紹が攻めてきた、さぁ公孫瓚どうする?
やがて、袁紹が攻めてくると、前線の将軍から、公孫瓚に援軍の要請が来ます。しかし、公孫瓚は一兵の援軍も送らず将軍を見殺しにしました。
理由は「援軍を送るとそれを当てにして、部下が必死に働かなくなる」という驚くべき、トンチンカンな理由でした。援軍が来ない事を知った前線の将兵は、袁紹軍が入ってくると、我先に司令官を殺して続々と降伏しました。その為に、袁紹軍は、簡単に公孫瓚の本拠地である易京まで侵攻できたのです。
袁紹軍・遂に公孫瓚まで近づく
易京には巨大な城壁があり、兵糧も10年分も備蓄してありましたが、袁紹は、トンネルを掘り、地下で城塞の建物の柱を破壊して楼閣を崩します。公孫瓚は死を覚悟して、家族を殺して城に火を放って死にました。西暦199年の事だと伝わります。三国志演義では劉備の気のいい兄貴分な公孫瓚ですが、正史では、かなり性格が悪い、奸雄の一人なのです。(笑)
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