三国志演義と正史で大違い?劉備の恩人、公孫瓚

2015年1月26日


 

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反董卓軍010

 

公孫瓚は、三国志の序盤では、反菫卓連合軍の将軍として、劉備関羽、張飛の桃園三兄弟を配下として従えて登場します。実は劉備は若い頃、盧植という人物の弟子で公孫瓚は兄弟子だったという伏線があり、その縁で公孫瓚の配下として参戦しているのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志演義の公孫瓚はどんな人物?

公孫攅と劉備

 

公孫瓚は、容姿端麗で威厳のある武将として描かれていて、異民族から選抜した機動力抜群の騎兵を率いて、白馬将軍と美称されるなど格好いい扱いです。

 

正史の公孫瓚はどんな人物?

朝まで三国志 公孫瓚

 

ですが、それは三国志演義だけの話であり、正史の公孫瓚は、野心の達成の為なら、なんでもやるという悪党なのです。公孫瓚の最初のライバルは、幽州牧である劉虞でした。劉虞は、後漢の建国者である光武帝の末裔の名門の家柄です。また、彼は温厚で質素、真面目で誠実な人物として、庶民の声望が厚い人物でした。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの  

 

劉虞と公孫瓚の違い

朝まで三国志 劉虞

 

劉虞は、烏丸(うがん)という異民族を鎮圧する使命を受けていますが力攻めを嫌い帰順した烏丸族に贈り物をするなどして、懐柔策を取り、烏丸もこれに服したと言われます。一方の公孫瓚は、同じ幽州を拠点にしていましたが、、「異民族は力で制圧しないと漢王朝を侮る」という好戦的な主張をしていました。

 

公孫瓚の悪党ぶり

公孫瓚

 

それはそれでいいですが、自身を正当化する為に、劉虞が烏丸族に送った贈り物を毎回強奪していたようです。劉虞からすると、「お前、、邪魔すんなよ」ですが、劉虞が抗議しに来ると公孫瓚はいつも仮病を使って会いませんでした。どうでしょう?公孫瓚の性格の悪さが見えませんか?

 

 

劉虞、遂に公孫瓚を攻める!

朝まで三国志 劉虞

 

劉虞は、いずれ公孫瓚が自分を狙ってくる事を考えて、先手を打ち、心服させた烏丸族を糾合して数万の兵力を組織して公孫瓚を攻撃します。それを知った公孫瓚は、城に籠って民衆を盾にして対抗します。おお、これは汚い、あまりにも汚い戦法です(笑)

 

劉虞は、人民を慈しむ君子として通っているのでこれを攻めあぐねてしまいます。

 

 

劉虞敗れる

騎馬兵 三国志

 

公孫瓚は、こうして劉虞の矛先を封じて、機動力が高い騎兵を多用、ゲリラ戦を展開して劣勢を挽回して遂に劉虞を捕えてしまいます。捕えられはしたものの、庶民は劉虞を慕っているので助命を嘆願します。徳は積んでおくもんだなと思いますが、公孫瓚には通じません。

 

公孫瓚は劉虞を市中で引き回して侮辱した上で、

 

「皇帝になれるような人物なら真夏でも雨を降らす事が出来よう」

と助命の為の無理難題を吹っ掛けます。

 

 

劉虞はどうなったの?

朝まで三国志 劉虞

 

時は真夏です、雨は降らず、劉虞は処刑されました。直後に、長安では菫卓が暗殺され、一時王允による漢王朝の復活が起きていて献帝は、劉虞を北方、六州の太守に任命します。

 

 

公孫瓚の悪役ぶりは更に磨きを増す

朝まで三国志 公孫瓚

 

そこで、公孫瓚は、死んだ劉虞の評判を落とす為に、

「劉虞は皇帝になろうという野心があった為に自分が討伐した」

と嘘八百を並べて、劉虞を中傷しました。

 

この行動により、庶民の支持を失った公孫瓚は、幽州の支配者の地位を手にいれると、豪華な生活に耽っていきます。

 

袁紹が攻めてきた、さぁ公孫瓚どうする?

朝まで三国志 公孫瓚

 

やがて、袁紹が攻めてくると、前線の将軍から、公孫瓚に援軍の要請が来ます。しかし、公孫瓚は一兵の援軍も送らず将軍を見殺しにしました。

 

理由は「援軍を送るとそれを当てにして、部下が必死に働かなくなる」という驚くべき、トンチンカンな理由でした。援軍が来ない事を知った前線の将兵は、袁紹軍が入ってくると、我先に司令官を殺して続々と降伏しました。その為に、袁紹軍は、簡単に公孫瓚の本拠地である易京まで侵攻できたのです。

 

袁紹軍・遂に公孫瓚まで近づく

朝まで三国志 公孫瓚

 

易京には巨大な城壁があり、兵糧も10年分も備蓄してありましたが、袁紹は、トンネルを掘り、地下で城塞の建物の柱を破壊して楼閣を崩します。公孫瓚は死を覚悟して、家族を殺して城に火を放って死にました。西暦199年の事だと伝わります。三国志演義では劉備の気のいい兄貴分な公孫瓚ですが、正史では、かなり性格が悪い、奸雄の一人なのです。(笑)

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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