孫堅、孫策と続いた呉の三代目、孫権は、劉備や曹操のような、
叩き上げの歴戦の英雄から見ると地味な印象を受けます。
しかし、それは、ある程度安定した地盤を引き継いで、多くの戦乱に
明け暮れる必要が無かったという点。
呉が発展できた理由
呉は中国国内でも有数な水に恵まれた穀倉地帯であり、
資源を求めて他所へ撃って出る必要がなく、それが守備に重点を置いた
呉の戦略に繋がったという点が原因です。
呉が地味な理由
曹操や劉備のようにガツガツしないでも済んだので、
どうしても活動が地味に見えるのでしょう。
そんな孫権ですが、曹操や劉備に劣らない、むしろ凌いでいる部分があります。
曹操や劉備に劣らないのは何故?
それは多くの人材を発掘して呉の発展に寄与した事です。
孫権の人材に対する考え方を現す言葉には、以下のようなものがあります。
「他人の長所を褒めて最大限伸ばし、欠点には目をつぶる」
孫権は、このような考えに基づいて、多くの部下を登用して、
これを活動させました。
名将に変貌させた孫権の人心掌握術
特に有名なのは、呂蒙(りょもう)という武将でしょう。
呂蒙は、元々は武力一辺倒の戦馬鹿であり、
赤壁でも大手柄を立てるなど優れた知恵はあったのですが、
貧しい境遇の為に学問が出来ず文字も読めない文盲だったので、
周囲からは「呉下の阿蒙」と馬鹿にされていました。
阿蒙の阿とは、○○ちゃんという意味で、ようするに
「蒙ちゃん」と軽く馬鹿にして呼ばれていた訳です。
孫権は、呂蒙を呼び寄せて、学問の必要性を強く説きました。
「何も学者になるほどに勉強をせよとは言わぬ、ただ、過去の事を
もう少し勉強して欲しいのだ」
孫権自身も忙しい政務の合間を見て、孫子の兵法を研究するなど、
大変な読書家でした。
その孫権から勉強しなさいと言われた呂蒙は一念発起して
寝る間を惜しんで勉強をし、ついには学者を凌ぐ知識を身につけています。
その事が、後に関羽を討ち取り荊州を奪還するなどの大功績に繋がるのです。
関連記事:「男子三日会わざれば刮目して見よ」……呂蒙について
孫権は優秀な人材を呉に招く
この呂蒙以外にも、孫権は、諸葛孔明の兄の諸葛僅(きん)や、
魯粛(ろしゅく)のような優れた政治家を呉に招いています。
魯粛は三国志演義では、周瑜と孔明の間で右往左往するくたびれた
中間管理職のような情ない役ですが、事実はそうではなく
長期的な戦略眼を持った有能な文官でした。
孫権にも「後漢王朝はもう駄目なので、江東の地で新しく王朝を
開いて、その王となるべきです。」と主張しています。
実は、古参の張昭のような文官は、後漢王朝の復興にこだわっていて
魯粛とは水と油だったのですが、孫権は両者の長所を入れて
バランス良く、これを用いていたのです。
また、後に夷陵の戦いで蜀軍を破って名を上げる陸遜(りくそん)も
孫権によって見出された人材です。
拡大していく、呉は多くの人材を必要としていました。
それを満たすには、有能な人材を見出す眼力が不可欠だったのです。
孫権は、その大事な眼力を持っていたからこそ、
受け継いだ呉を拡大させて、三国の一国の地位を確保できたのです。
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自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、
好きな歴史人物:
西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc
何か一言:
歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。