中山靖王(ちゅうざん・せいおう)劉勝(りゅうしょう)の末裔と言えば、いわずと知れた劉備玄徳(りゅうび・げんとく)です。しかしながら広い中国、漢の末裔は劉備だけではありませんでした。それが劉虞(りゅうぐ)という人物です、皆さん聞き覚えがないかも知れませんがそれもその筈で、彼は三国志正史のみに登場し、演義には出てきません。劉虞は、字を伯安(はくあん)といい、生年は不詳、没年は193年です。
この記事の目次
劉虞(りゅうぐ)の家系図
彼は、後漢の建国者、光武帝(こうぶてい)の長男、東海恭王(とうかい・きょうおう)劉彊(りゅうきょう)の末裔で、祖父の劉嘉(りゅうか)は光禄勲、父の劉舒(りゅうじょ)は南陽郡の太守というまずまずの家柄、前漢景帝の末裔の劉備よりは血縁が皇室に近い分だけ、家柄は良いと言えるでしょう。努力して、身を治め朝廷に入って、郎(ろう)になった後、孝廉(こうれん)に推挙されて、幽州刺史に任命されると、北方の異民族烏桓(うかん)族を慰撫(いぶ)して、これを懐かせます。
烏桓(うかん)族は劉虞の人徳に感化された
烏桓(うかん)族は劉虞(りゅうぐ)の人徳に感化されて、幽州に押し入り、略奪を起す事を止めたので、幽州の民は、劉虞(りゅうぐ)に心服してその政治を称えました。その後、劉虞(りゅうぐ)は、幽州の環境に合わなかったのか、体調を崩して故郷に帰りますが、故郷でも劉虞(りゅうぐ)の名声は聞えていて郷里の人はもめ事があっても役人は頼まず、劉虞(りゅうぐ)に相談する程だったと言われています。
黄巾の乱、勃発
西暦184年、黄巾の乱が勃発すると劉虞(りゅうぐ)は、甘陵国の相に任命され黄巾賊に荒らされた領地の回復に務めて、質素倹約を奨励します。その後、その功績で劉虞(りゅうぐ)は尚書令、光禄勲を経て、宗正に昇進、順調に出世を繰り返します。
西暦187年には、中山太守の張純(ちょうじゅん)と張挙(ちょうきょ)が烏桓族の丘力居(きゅうりき・きょ)と組んで後漢に反乱を起こしました。漢王朝は、劉虞(りゅうぐ)を幽州牧に任命して反乱を鎮圧しようとしますが、劉虞の名声は、烏桓族にも轟いていたので、烏桓族は丘力居を支持せず劉虞(りゅうぐ)に投降、張純は同じ異民族の鮮卑族に逃げ込みますが、そこで、自分の食客に殺されてしまいます。
劉虞(りゅうぐ)は反乱の鎮圧に成功
結局、劉虞(りゅうぐ)は、ろくに戦争の指揮もしないまま、反乱を鎮圧します。この辺りは、劉備同様に超人的な魅力の高さを感じますね。この手柄で、劉虞(りゅうぐ)は三公の大尉に昇進し、さらに菫卓(とうたく)が献帝(けんてい)を擁立すると菫卓によって、大司馬に任命され襄賁候(じょうふん・こう)に任命。
劉虞(りゅうぐ)を皇帝に就けようとする
反菫卓連合軍を率いている袁紹(えんしょう)は、この劉虞(りゅうぐ)に目をつけて、献帝に代わり、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に就けようとします。もちろん、劉虞(りゅうぐ)が光武帝の血を引く、名門の出身である事を利用しての行動ですが、当の劉虞(りゅうぐ)はこれを辞退します。そりゃあ、そうでしょう、、
袁紹が勝てばいいですが、菫卓が勝ってしまったら、皇帝を名乗った劉虞(りゅうぐ)が助命される可能性は万に一つもありません。これから暫く後、袁術(えんじゅつ)は皇帝を自称しますが、その結果、仲間や家来からもソッポを向かれ孤立して、自滅していく事を考えれば劉虞(りゅうぐ)の判断は正しいものでした。
董卓、長安に移る、その時、劉虞(りゅうぐ)は?
さて、菫卓は、連合軍の攻勢を受けて、都を長安に移します。劉虞(りゅうぐ)は、この時に献帝への忠誠を示す為に部下を派遣しました。献帝は、これを喜んで、劉虞の息子である劉和(りゅうわ)を送り、自分を迎えに来るように要請しました。ところが劉和(りゅうわ)は、途中で袁術の領地を通過する途中に袁術に捕まってしまいます。
袁術は、劉和(りゅうわ)を脅して、劉虞から兵力を騙し取ろうと偽物の手紙を書かせて「騎兵3000騎を朝廷に送るように」指示します。劉虞の所には、公孫瓚(こうそんさん)もいて、彼は袁術の悪だくみを見抜いていました。
「兵力を送ってはなりません、これは袁術めが兵力を奪い取る為の罠です」
しかし、公孫瓚と仲が悪かった劉虞は、この忠告を聞かず、袁術に騎兵3000を派遣してしまいます。
すると今度は、公孫瓚が、袁術に恨まれるのを恐れて、自分の従弟の、公孫越(こうそんえつ)に兵を持たせて、袁術に送りました。
そして、「劉和から兵を取り上げて私兵にしてしまいなさい」と袁術に助言したのです。それを聞いた劉虞は激怒し、公孫瓚との仲はより険悪になります。公孫瓚は、隣国の冀州を抑える袁紹と度々紛争を起して、何度も負けていますが、それでも紛争を止めませんでした。
上司にあたる州牧の劉虞は、公孫瓚を度々、諌めて袁紹との戦争を止めさせようとしますが、公孫瓚は聞かないので、公孫瓚に供給していた物資をドンドン減らしました。これに激怒した公孫瓚は、幽州の人民の土地を荒らして略奪する他劉虞が異民族を懐柔する為に送った物資を奪い取ってしまいます。劉虞もこれには堪忍袋の緒が切れ、公孫瓚のアジトを何度も訪ねますが公孫瓚は、化病を使い、これと会いませんでした。
劉虞、遂に公孫瓚を討伐する
劉虞は怒り心頭に達し、ついに、公孫瓚を討伐する為に、10万人の兵力を集めます、ところが、程緒(ていちょ)という部下が、
「公孫瓚には落ち度がなく、討伐には大義がありません」と進言。
劉虞は、「開戦と決めてから反対を唱えるとは何事か!」と怒って、程緒を斬罪に処しました。
程緒は、幽州の将兵の人望を集めていたので、劉虞軍は動揺して、逆に士気が低下してしまいます。本来は、電撃戦を予定していた劉虞は、すっかり準備が遅れ、その間に公孫瓚は、反撃の準備を整えてしまいます。兵力に劣る公孫瓚は、卑劣にも民衆を自軍の盾に使って、劉虞軍に突撃してきます。
劉虞は、「人民を傷付けてはならん、討つのは公孫瓚のみ」と無理な命令を出しました。
結局、劉虞軍は、圧倒的多数にも関わらず、攻めあぐみ、とうとう、少数の公孫瓚軍に撃破されます。劉虞は、公孫瓚軍に捕まり、捕虜にされてしまいました。
劉虞(りゅうぐ)公孫瓚軍に捕虜される
ですが、幽州の民は、人民思いの劉虞が殺されるのを惜しみ沢山の助命嘆願の訴えが公孫瓚に届きます。公孫瓚は、大勢の人が見守る中で劉虞の縄を解いて、このように言いました。
「天子になる程の人物であれば、この真夏に雨を降らせる事も不可能ではあるまい、それが出来たら、命を助けてやろう」
無情にも、雨は降らず、劉虞は公孫瓚に斬首されます。
劉虞の首は、「皇帝を詐称した」という公孫瓚のデッチあげの讒言と共に、長安に送られそうになりますが、途中で劉虞の残党、尾敦(びとん)により、首は奪い返され墓に埋葬されました。
皇族・劉虞(りゅうぐ)の悲しい最期
これが、演義には載らない、もう一人のプリンスの最期です。
異民族を心服させる力といい、融通が利かない位に、
人民思いの所といい、劉備とかぶる所が多い劉虞、、
しかし、演義に登場させると劉備のキャラが薄まるので、その出番は、無いのかも知れませんね。