呉夫人は、江東の獅子、孫堅(そんけん)の妻です。彼女は、早いうちに両親を無くし、弟の呉景(ごけい)と貧しい暮らしをしていました。
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呉夫人に惚れた孫堅
しかし、彼女は才気煥発で美人でもあり、周囲に名前が知れ渡っていました。当時、銭塘で小役人をしていた孫堅は、この呉夫人に惚れて直ぐに求婚します。ところが、呉の一族は、孫堅が軽薄で抜け目のない性格をしている事を嫌い縁談を拒否します。孫堅は、その事を激しく恨みました。
孫堅:「本当は、ワシの家柄が卑しいから娘をくれないのに違いない、この恨みは決して忘れないぞ」
孫堅が呉氏を恨んでいる事を知った呉夫人は、一族に直訴します。
呉夫人「ただ、一人の娘の幸せの為に一族を危機に陥れないで下さい。結婚して不幸になるようなら、それも運命、私は受け入れます」
呉氏は、彼女の説得を入れて、婚姻を許可しました。
呉夫人の子供って誰?
孫堅と呉夫人は、仲睦まじく、4男一女に恵まれました。もちろん、その長男は孫策(そんさく)、次男は孫権(そんけん)です。
戦死した孫堅
呉夫人は、孫堅が董卓討伐に挙兵すると、夫と一緒に舒に移り住みますが、ほどなく孫堅は、黄祖(こうそ)の部下呂公(りょこう)の矢に射抜かれて戦死してしまいます。これを受けて呉夫人は、江都から長男の孫策の招きで江東に移り住みます。孫策は、父の失地を回復しようと頑張り、江東を制圧していきますが、その途中で王晟(おうせい)という者を捕えました。
孫堅の元同僚だった王晟(おうせい)
王晟は、元々、孫堅の同僚でしたが、今は敵同士だったので、孫策はこれを斬首してしまおうとします。すると、孫策の前に呉夫人が現れていいました。
呉夫人:「策や、王晟は、かつては孫堅が自宅に招き入れ、奥座敷で、この母を紹介する程の親しい間柄でした。すでに王晟は、一族も全て打ち果たされ、ただ一人です、今後、復讐される事もありません、見逃してあげなさい」
孫策は、呉夫人の言葉を受け入れて、王晟を逃がしました。
魏滕(ぎとう)を処刑したい孫策
また、或る時、孫策は自分の機嫌を損ねた魏滕(ぎとう)を処刑しようとしました。この魏滕は、曲がった事が大嫌いな人物で東呉の人心を集めていたので、周囲は、何とか魏滕を助命しようとしましたが、孫策の決心は固く、処刑は逃れられそうにありません。それを聞いた呉夫人は、孫策を井戸の側に呼び出しました。そして、自分は井戸の縁に腰掛けて言います。
呉夫人:「魏滕は、正直な人間で、東呉の人望を得ています、彼を殺すようなら、もはや、あなたについていく人材はいなくなり、孫家は滅びるでしょう。私は、そのような孫家を見たくないので、今から井戸に身を投げます。」
孫策は、ビックリして呉夫人を止めて魏滕を処刑する事を思いとどまります。
父に似た孫策を上手く掌握する呉夫人
呉夫人は、父に似て苛烈な孫策に対して、敵であっても情深く接する事を教え独断に陥りがちな孫策のブレーキになっていたのです。
孫策は許貢(きょこう)の刺客に襲われる
西暦200年、孫策が許貢(きょこう)の刺客に襲われて帰らぬ人になると、呉夫人は、孫権を盛りたてて政治上のアドバイスをしました。若年の孫権に、内政では張昭、外交では周瑜を頼るように言ったのは、この呉夫人であると言われています。
呉夫人の遺言
西暦202年、呉夫人は病を得て、病没します。死ぬ前に彼女は、重臣張昭(ちょうしょう)を招いて、自分の代わりに孫権の父母として、仕えてくれるように遺言して息を引き取ります。彼女の遺体は、孫堅の墓陵に葬られ、後に呉が建国されると、呉夫人は、武烈皇后と送り名されました。
三国志演義では、呉夫人と呉国太という二人の女性が出てきますが、正史には、そのような記述はなく、演義は、優しく同時に気丈だった、呉夫人の性格を二つに分けて描いたようです。