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この記事の目次
蒙恬、匈奴を追い払い、万里の長城を築城する
紀元前215年、将軍になった蒙恬は、30万の軍勢で匈奴と戦いオルドス地方を奪還する事に成功します。始皇帝は、これを大変に喜び、それを契機に弟の蒙毅(もうき)も取り立てられるようになりました。
そして、蒙恬は、再度の匈奴進攻に備えて万里の長城の建設に着手します。長城自体は、それぞれの国が遊牧民対策で造っていましたが、始皇帝は、これを繋ぎ合わせて中華全土を防衛できるようにしようとします。蒙恬は、その現場責任者として実際の築城に当たったのです。現在の万里の長城の原型は、あの蒙恬が造ったんですね。
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始皇帝の長子、扶蘇がやってくる
匈奴を警戒している蒙恬の下に、焚書坑儒で始皇帝を批判した長子の扶蘇(ふそ)が左遷されてきます。焚書坑儒とは、秦を批判するような本や人を全て集めて逮捕し本は燃やし、人は穴に生き埋めにするという残酷な政策でした。扶蘇は、勇気があり聡明で、次の皇帝と目されている人物でした。扶蘇と蒙恬は性格が合ったようで共同して匈奴に備えます。そして、次期皇帝の側近になった事は、蒙恬をさらに出世させる筈であったのです。
始皇帝死す、趙高、遺言を偽造して扶蘇を殺す
紀元前210年、始皇帝が49歳で死にます。しかし、始皇帝の側近だった趙高(ちょうこう)は遺言を偽造して、扶蘇と蒙恬に死ぬようにという勅命を出しました。
蒙恬は「これはおかしい、咸陽に行き、真偽を確かめましょう」と扶蘇に言いますが、親孝行な扶蘇は勅命を信じて自殺しました。
蒙恬は、尚も態度を決めかねていましたが、即位した二世皇帝胡亥(こがい)より短剣が送られてくるともはやこれまでと観念して自殺します。
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蒙恬が殺されたのは扶蘇がやってきたから
蒙恬は、将軍としては、特別優秀というわけではありませんでした。将軍位も家柄で自動的になったようなものです。ですが、彼が赴任したオルドスに扶蘇がやってきたのが仇になりました。扶蘇は始皇帝にも遠慮なく諫言する性格でしたし、特に、李斯がやり始めた言論弾圧、焚書坑儒には儒学を擁護する立場から強烈に反対していました。
趙高も李斯(りし)も焚書坑儒を推進した人間ですから、始皇帝が死んで、扶蘇が皇帝になれば死は免れないという危機感がありました。それに蒙恬には、匈奴対策とは言え、30万という大軍があります。扶蘇の存在と30万の軍勢、この二つを考えた趙高は、個人としては凡庸な蒙恬を殺す事を決意したのです。
全滅した蒙恬の一族
趙高は報復を恐れて、蒙恬の弟の蒙毅も処刑、蒙家にまつわる人間は、尽く処刑してしまいました。それにより、蒙恬の子孫は完全に絶えてしまったそうです。あんなに爽やかなイケメンの蒙恬の一族は史実では、途絶えてしまうのです。
なんだか、寂しいですね、蒙恬、そこまでの悪党でもないのにね、ファヤヤヤーーン♪
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