某三国志ゲームを荀彧で始める。
コツコツと名声を挙げて主君である曹操との友好度もMAX。
そんな時に曹操から「陳宮の代わりに軍師になってくれぬか」とお願いされました。
勿論断ります。
だって自分は荀彧なんです。
任せられるは尚書令であり、軍師ごときの器ではありません。
せっかく荀攸も郭嘉も程昱も推挙してあげたんだから軍師なんて彼らにやらせてくださいよ。
そうすると当然、曹操はたちまち不機嫌になり友好度もダダ下がり。
何を献策しても用いてくれなくなってしまいました。
三国志ゲームをしているとよくあることです。(少なくとも自分は)
さて、三国志演義では若干地味な王佐の才は実際どのような仕事をしていて、その権力は如何ほどのものだったのでしょうか。
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献帝獲得までのお仕事
荀家は名家なので曹操に仕える前の荀彧も当時のエリートたちが進むような出世街道を辿っていました。
当時の潁川太守である陰修の主簿(秘書)も勤めていたとの話もありますが、当の荀彧伝にはその記載はありません。(鍾繇伝に記載があります)
献帝が帝位に就いた後に孝廉に推挙され、最初の官職は守宮令。
これは帝の文房具の管理をするという若干地味なお仕事です。
董卓の乱で荀彧は出世コースを外れる
董卓の乱で都が荒れると、荀彧は約束された出世コースを自ら外れます。
守宮令として働いていた期間は数ヶ月~1、2年程度でした。
その後袁紹を無視した荀彧は、未だ発展途上にあった曹操軍に身を置きます。
そこで曹操が「我が子房がやってきた!」と喜んだのは有名な話です。
荀彧が唯一軍師と呼んでもいい仕事をしていたのはこの時でした。
三国志荀彧伝には曹操が鎮東将軍になった頃に荀彧はいつも司馬として従っていた、との記載があります。
ここで言う司馬は、軍を統制する警察官のような役割と考えられます。
曹操はなんでも荀彧に相談したがるので、戦についての献策もしていたのではないでしょうか。
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献帝獲得後のお仕事
さて、献帝を許に迎えて以降、荀彧は長く侍中守尚書令という役職に就きます。
侍中は皇帝の傍に侍して質問などに答える教育係兼お世話係です。
尚書は帝への上奏文を管理する役職で、尚書令は尚書たちを統べる長官でした。
その仕事の性質上都を離れることはできないため、曹操軍の司馬という役割はここで終了となります。
それ以降は主に内政を取り仕切る役割になったために軍記物の三国志演義では荀彧の影が薄くなってしまうわけです。
曹操の覇業を支えた荀彧
侍中や尚書令の仕事に加え、荀彧にはもうひとつ重要な役割がありました。
それは、何かと弱気になり泣き言を言う曹操を鼓舞すること。
官渡の戦いの前には袁紹との戦力差に弱気になる曹操を「公は袁紹よりすごいから大丈夫」と奮い立たせ、いざ戦が始まると「食料も不足してるし怖いから帰りたい」との泣き言をわざわざ手紙で送ってくる主君に「ここで帰るのは馬鹿だし、こうすれば多分勝てるんじゃないかと思うから頑張ってください
(実際はやんわり言ってるはずです)」と窘めます。
もしかすると、この手のかかる主君のお守り役が他の何にも勝る荀彧の功績かもしれません。
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曹操よりも凄い?!荀彧の権力
荀彧は尚書令という地位に長くいましたが、この尚書令という官職、実は結構なくせ者です。
上で簡単に帝への上奏文を管理する仕事、と書きましたがそれだけではありません。いえ、それだけでも大変に権威のある仕事なのですが・・・・・・。
まず、上奏文を帝に上奏するかどうかは尚書が判断します。
つまり尚書、ひいては尚書令の荀彧のお眼鏡に適わなければ曹操ですら帝に上奏することはできなくなってしまうのです。
劉備や孫権からの上奏も間違いなくまずは尚書台で検閲したと思われます。
荀彧は許都を離れることはできませんでしたが、その場にいながら中国全土の情勢を知ることができたわけです。
直接、皇帝と話すことができた荀彧
また、彼は侍中という直接皇帝と話ができる立場にいました。
後漢での侍中は他の役職との兼任が普通でしたが、これ以上の最強のタッグはないと思えるほどです。
自分の意に副わない上奏はなにかと理由をつけて却下し、皇帝に入れ知恵をして思うままの詔を出させる、ということもやろうと思えば可能なわけです。
これは荀令君には逆らえませんわ。
曹操が荀彧に(あまり)逆らえない理由はもうひとつありました。
それは荀彧が後に魏の内政を支えることになる有能な人材を多く推挙していることです。
その上陳羣は荀彧の娘婿に当たりますし、鍾繇に至っては「顔回(孔子の高弟)没後に九つの徳を完備し、同じ過ちを二度と繰り返さない者はただ荀彧ひとりだ」と心酔といっていいほど賞賛しています。
彼らに一斉にそっぽを向かれるようになることは曹操も避けたかったはずです。
ちなみに荀彧は曹操からの「三公になれ」という要請を何度も何度も何度も何度も(十数回)お断りしています。
三国志荀彧伝には欲のない荀彧の美談のように書かれていますが本当に慎み深かっただけなのでしょうか?
そのお話はまた次の機会にします。
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