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煮えたぎる油釜を見せて鄧芝を脅す孫権
しかし、ようやく会見の場所に行って鄧芝が見たのは煮えたぎる油釜でした。孫権は、油釜で脅して蜀の本心を確かめようとしたのです。ところが鄧芝はこれに猛然と反発して孫権を罵倒します。カッとなった孫権も「それが王に対する礼儀か!」と言い返します。
「私は皇帝の使者であり、まだ王に過ぎないあなたに礼を尽くす必要はない」鄧芝も怒鳴り返しました。
孫権(こいつ、、なかなかやりおるわい)
孫権はここで初めて腹を割り、実は蜀との同盟を前から考えてはいるのだが、おたくの二世皇帝の劉禅の力が分からず踏み込めないのだと言います。そこで鄧芝は、蜀は天然の要害に囲まれ、諸葛亮を含めて賢臣はゴマンといるまた、呉も三つの大河が流れて、守りは鉄壁で両者が組めば魏は恐れるに足りないと自信を持って答えました。孫権は鄧芝の回答に大きく頷きます。
ためらう孫権に鄧芝は釜茹でダーイブ!!
それでも孫権は同盟を結ぶとは言いません。孫権にまだ迷いがあると見た鄧芝は、「では私の真心をご覧にいれる!」と煮立った油釜に飛び込んで天ぷらになろうとします。
「よせ!わかった! ワシは腹を決めた同盟を結ぼう」孫権は鄧芝を押しとどめ、ここに蜀呉同盟は再締結されます。
性格が真っ直ぐすぎな鄧芝
孫権は嘘をつかない鄧芝をとても気に入り、それからも何度か鄧芝を呉に呼んでいます。何度目かの会見で孫権は冗談半分で「魏を滅ぼしたら天下を呉蜀で半分こしようぞ」と鄧芝に言いました。すると鄧芝は大真面目に「御冗談を地上に天子は一人です、その時は正々堂々と雌雄を決しましょう」と言い放ったので孫権は大笑いしました。
三国志ライターkawausoの独り言
鄧芝は、このように孫権にも物おじしない性格でしたが、それは誰に対してもそうで言いたい事はどんどん言い、故に交際する人も少なかったようです。占い師の張裕の予言通り、70を過ぎて西暦243年には車騎将軍、陽武亭侯江州都督になりましたが、年齢を重ねると性格はより頑固で傲慢になり当時の丞相であった費禕でさえ、鄧芝には遠慮していたといいます。唯一と言える友人に宗預(そうよ)という文官がいましたが、この人も堂々とした人物で孫権に愛されていました。宗預は60を過ぎて、初めて軍事に関わる仕事に就きますが、鄧芝はそれを聴いて怒り「60過ぎのジジイが軍を指揮しては礼に外れよう!」と文句を言いました。すると宗預は「あんたは70過ぎだがいつまで兵を預かるつもりかね?」とやり返したと言われています。今日も三国志の話題をご馳走様でした。