三国志が好きなら一度は聞いたことのある戦い、それが合肥の戦いです。
魏と呉の戦いですが、孫権(そんけん)は何度も戦いを挑んでいます。
なぜ孫権は合肥を狙い続けていたのでしょうか。
その理由と合肥城の戦いを前半・後半で分けて紹介していきたいと思います。
関連記事:表向き武力を用いない王朝交代劇「禅譲」、曹操と荀彧の思惑は?
この記事の目次
合肥に攻めこんだきっかけとは
孫権が合肥に執念を燃やした一つ目の理由は、蜀との同盟です。
蜀の荊州返還問題の時、劉備が孫権に荊州の一部を返還する代わりに、
合肥に攻め込んでほしいとの依頼があり、孫権はこの盟約を守るため、合肥に攻め込みます。
一時期蜀と呉の盟約は切れますが、その後、再び同盟を結び、蜀の丞相である諸葛孔明からも、合肥攻撃の依頼があったので、度々攻め込んでいました。
関連記事:荊州を餌に孫権を合肥を攻めさせる劉備
関連記事:荊州争奪戦、荊州がどうしても欲しいんです
2つ目の理由
二つ目の理由として、呉の国を防衛するためです。
合肥から呉の首都・建業までは約150㎞しかなく(現在の日本で表すと大阪~岡山までの距離)、
魏軍が大軍を率いて長江を渡ったら、近くに建業があることになります。
孫権としては首都防衛のため、絶対に攻略しなくてはならない場所です。
こんな経緯から孫権は合肥攻略に意欲を燃やすのです。
ここからは合肥攻略戦をまとめていきたいと思います。
関連記事:曹操と孫権の合肥を巡る戦いが何度も行われていた Part1
関連記事:曹操と孫権の合肥を巡る戦いが何度も行われていた Part2
合肥城へ初攻撃
孫権は、曹操軍を赤壁の戦いで大勝利をおさめた後、合肥に初めて攻撃を仕掛けます。
この時の合肥は、(以前魏の地方行政官・劉馥を取り上げた際に、合肥城の事を書きましたので詳細は割愛します。)
城は強固ですが、守備兵が少なく有名な将も居ない城でした。
孫権はこの城に攻撃を仕掛けますが、魏の蒋済の流言に踊らされて、何もしないまま退却することになります。
私は、合肥攻略の最大のチャンスがこの時であったと思います。
曹操は、赤壁の戦いで敗れ、大軍を送れませんでした。
実際に曹操が援軍に送ったのは、たった2千程度の軍しか合肥に送れませんでした。
蒋済の流言に踊らされず本気で攻め込まなかったのが、残念でなりません。
【次のページに続きます】