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孫権は何であれほど合肥城を狙い続けたの?理由をわかりやすく解説(前半)

2015年11月22日


 

曹操VS孫権R2

 

三国志が好きなら一度は聞いたことのある戦い、それが合肥の戦いです。

魏と呉の戦いですが、孫権(そんけん)は何度も戦いを挑んでいます。

なぜ孫権は合肥を狙い続けていたのでしょうか。

その理由と合肥城の戦いを前半・後半で分けて紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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合肥に攻めこんだきっかけとは

劉備にそそのかされて出撃

 

孫権が合肥に執念を燃やした一つ目の理由は、蜀との同盟です。

蜀の荊州返還問題の時、劉備が孫権に荊州の一部を返還する代わりに、

合肥に攻め込んでほしいとの依頼があり、孫権はこの盟約を守るため、合肥に攻め込みます。

 

一時期蜀と呉の盟約は切れますが、その後、再び同盟を結び、蜀の丞相である諸葛孔明からも、合肥攻撃の依頼があったので、度々攻め込んでいました。

 

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2つ目の理由

孫権 弔い出陣

 

二つ目の理由として、呉の国を防衛するためです。

合肥から呉の首都・建業までは約150㎞しかなく(現在の日本で表すと大阪~岡山までの距離)、

魏軍が大軍を率いて長江を渡ったら、近くに建業があることになります。

孫権としては首都防衛のため、絶対に攻略しなくてはならない場所です。

こんな経緯から孫権は合肥攻略に意欲を燃やすのです。

ここからは合肥攻略戦をまとめていきたいと思います。

 

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合肥城へ初攻撃

孫権日本

 

孫権は、曹操軍を赤壁の戦いで大勝利をおさめた後、合肥に初めて攻撃を仕掛けます。

この時の合肥は、(以前魏の地方行政官・劉馥を取り上げた際に、合肥城の事を書きましたので詳細は割愛します。)

城は強固ですが、守備兵が少なく有名な将も居ない城でした。

孫権はこの城に攻撃を仕掛けますが、魏の蒋済の流言に踊らされて、何もしないまま退却することになります。

私は、合肥攻略の最大のチャンスがこの時であったと思います。

曹操は、赤壁の戦いで敗れ、大軍を送れませんでした。

実際に曹操が援軍に送ったのは、たった2千程度の軍しか合肥に送れませんでした。

蒋済の流言に踊らされず本気で攻め込まなかったのが、残念でなりません。

 

【次のページに続きます】

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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