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連合軍内の会議の結果、皇帝が決まる
結果、連合軍内での意見が強い新市・緑林系の幹部らの意見が優位を占めて、
本家の劉玄が皇帝となります。
彼は皇帝名を「更始帝」と称し、連合軍を率いていくことになります。
数千の軍勢で100万の軍勢を破った「昆陽の戦い」
新の皇帝・王莽は、更始帝を討伐するため、100万の軍勢(戦闘兵約50万程)を出陣させ、
劉秀や更始帝の居城である昆陽城を包囲します。
劉秀は、昆陽城から近い、潁川軍で兵を集めるため、100万の軍勢に包囲される直前で、脱出します。
100万の軍勢の総大将である王邑(おうゆう)は、
更始帝の軍勢が降伏を願い出るも却下し、猛攻を開始したのです。
更始帝の軍勢は、降伏を拒否され、敵の攻撃が開始されると、必死に抗戦を開始します。
その頃、劉秀は何をしていたの?
劉秀は、潁川郡で募兵し、数千の兵士を獲得し、包囲軍の近くに陣を築きます。
敵は、劉秀の軍勢を迎撃するため出陣しますが、劉秀軍の果敢な攻撃の前に敗れて、帰還しました。
劉秀は敵の軍勢を破るとすぐさま昆陽城内に使者を出し「援軍がもうすぐ到着する」と知らせます。
この知らせを聞いた諸将は士気が高まり、政府軍に対して激しい抗戦を行います。
その後劉秀は全軍を率いて、政府軍の中心(総大将が居る場所)へ突撃をしました。
100万の軍勢を見事追い払う事に成功
政府軍は人数が多く、劉秀の軍勢に対応できず、敵の中心部を撃破することに成功します。
また城内にいる味方の軍勢も出撃し、敵を大混乱させ、100万の軍勢を見事追い払う事に成功しました。
また兄である劉縯も宛城を陥落させ、
100万の軍勢を破った劉秀と宛城を攻略した劉縯の名は全国に轟きます。
劉縯の名声が高まったことに悲劇が起こる
更始帝は、この戦いで劉秀と劉縯の名声が高まった事を恐れ、
劉縯を反逆罪の罪をでっち上げて、殺害します。
劉秀は、兄が死んだことを非常に悲しみますが、
表情や態度、事件の内容についても一切誰にも語らず、
兄の反逆罪を更始帝に謝罪することで、自らに降りかかってくる災いを回避しますが、
新たな苦難が彼の前に立ちはだかります。
三国志ライター黒田廉の独り言
次回は、劉秀の人生の中で一番苦しい時期である河北転戦から物語は始めたいと思います。
今回はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
次回記事:後漢の始祖・光武帝劉秀(りゅうしゅう)ってどんな人?苦難に耐えて皇帝になる Part.2