スパルタは、紀元前10世紀頃から、紀元前146年にローマの属州になる頃までギリシャに存在した最強の重武装歩兵を持つウルトラ全体主義都市国家です。一方の秦は、紀元前8世紀頃から、紀元前206年まで存在した、ウルトラ法律万能主義国家でした。
いずれも、一方はギリシャの覇者になり、一方は中国全土を支配するという、強大なポテンシャルを持ち、また、その軍隊は精強で無敵と称えられました。両者は、遥かに土地を隔てており、また繁栄していた時期も違いますが、もし、両者が戦ったとしたならば、一体どちらが勝利するのでしょうか?
この記事の目次
- スパルタ兵の強さの秘密、全男子が全て兵士というスパルタ教育
- 圧倒的多数の奴隷に備える為にスパルタ人が出した結論
- 兵役の長さは42年間!人生のほぼ全てを戦士として過ごす
- 商軮(しょうおう)の変法により雁字搦(がんじがら)めの全体主義国 秦
- スパルタ軍の軍制とはどうなっていたか?
- 秦の軍制はどうなっていたのか?
- いよいよ、激突、中華最強秦VSギリシャの覇者スパルタ
- 一方の秦は、中華伝統の歩兵主体の陣形で対抗
- スパルタ兵、弩兵の攻撃をモノともせず突進
- 鉄の精神力!少しも怯まず、スパルタ兵が秦兵に襲い掛る
- じりじり、下がり、スパルタ兵を迎撃する秦兵に疲れが出る
- 秦、騎兵と戦車部隊により、スパルタ兵を力で粉砕、しかし・・
- スパルタ兵、バーサーカー化し、指揮官を狙い出す
- 秦軍、指揮系統を喪失・・
- そこで、秦の将軍が見たモノは・・
- スパルタ対秦の勝敗
- 春秋戦国ライターkawausoの独り言
スパルタ兵の強さの秘密、全男子が全て兵士というスパルタ教育
スパルタは、別部族からスパルタ人を呼んだ名前で、スパルタ人達自身は自分達をラケダイモーンと呼んでいました。元々はギリシャの北方にいた彼等の先祖は南下してミュケナイ時代のアカイア人を征服して、それを全て奴隷にしてしまいます。
紀元前、743年、勇猛にして、向こう見ずなスパルタは、自分の部族の統一が出来ない間に、西の隣国のメッセニアを侵略してしまいます。これにより、スパルタ人口5万人に対して奴隷にしたアカイア人や、メッセニア人が25万から35万という、極端な人口になります。
圧倒的多数の奴隷に備える為にスパルタ人が出した結論
これでは、常に自国民より圧倒的に多数な奴隷の叛乱を警戒しないといけなくなりますがそこで、スパルタ人が出した結論が・・
「スパルタ人1名でアカイア人やメッセニア人10名を倒せる位強くなれば、我々は一向に構わんッツ!!」という、烈(れつ)海王(かいおう)ばりの頼もしいお言葉・・
こうして、スパルタに生まれた男子は7歳になると、親から引き離されて軍事訓練を受けるようになり、12歳からは本格的な戦闘訓練を受け、アゴラと言われるスパルタ人になる為の教育を叩きこまれます。
そこでは、スパルタに対する忠誠と義務、そして同胞愛や忍耐というような優秀な戦士となる為の教育が施されました。こうして、18歳になったスパルタ人は、一度、剣一本のみを与えられて、共同体から出され、奴隷民の集落から略奪したり、殺人したりという試練を抜けそれが済むと、民会の全員一致の決議で戦士として認められます。
兵役の長さは42年間!人生のほぼ全てを戦士として過ごす
こうして、戦士になった、スパルタの男子は、18歳から60歳になるまでを、軍の兵舎で団体生活を送る事になります。妻を娶(めと)っても、夜には兵舎に帰る義務があり甘い新婚生活などスパルタでは望むべくもありませんでした。まさに生涯続くスパルタ式教育で、スパルタ兵はギリシャ最強になったのです。
商軮(しょうおう)の変法により雁字搦(がんじがら)めの全体主義国 秦
元々、西の外れの後進国だった秦は、流れ者として秦に辿りついた商軮の法を用いた厳罰主義により強制的に強国に生まれ変わる事になります。
秦では内乱を防ぐ為に、密告が奨励される一方、法を侵すと苛酷な刑罰が身分に関係なく適応されるようになりました。特に、戦場においての軍律は厳しく、将軍が敗戦すると、当人の処刑は当然として財産は没収され、先祖代々の墓は暴かれて骨は市場にばらまかれる他、その家族は全て、奴隷の身分に落されてしまいました。逆に、手柄を立てると必ず、賞されたので、これは秦人の戦闘意欲を高め、秦兵の中には裸で戦い、敵国兵の10倍の働きをする人間も出ました。
秦においての兵役は17歳~60歳でしたが、スパルタと違い、平時は、その期間にトータル2年間の兵役を勤めれば終わりです。ただし、ヘマがあったりすると兵役の延長もあったので、気は抜けませんでした。
スパルタ軍の軍制とはどうなっていたか?
スパルタの軍制は重装備の歩兵で編成されていました。装備は2・5メートルの槍と、金属製の顔全体を覆う兜、それに上半身を覆う金属製の鎧と、大きな盾を装備しています。戦闘隊形はファランクスと呼ばれる歩兵の密集陣形の一種類です。
3列12名のファイル(縦隊)と呼ばれる隊列が2つでフィフティーズと呼ばれる72名の部隊が出来、さらに、このフィフティーズが2つ集まり、144名のlochosを編成これがスパルタの最小単位の軍になります。このlochosが4つ集まったのが師団でmoraと呼ばれ、スパルタ軍は、この師団が6つ集まり軍が編成されていたので、一軍は3456名になります。
秦の軍制はどうなっていたのか?
秦の軍制は、細かい所が分からないので、漢の軍制に習おうと思います。すなわち、曲(きょく)が200名で最小の単位。次が部(ぶ)で曲を二部隊合わせて400名、さらに次が校(こう)で部を二部隊合わせて800名、次が裨で(ひ)で校を二部隊合わせて1600名。
最後が裨を二部隊合わせて軍、3200名になります。奇しくもスパルタの軍の3456名にかなり近い数字になりました。
いよいよ、激突、中華最強秦VSギリシャの覇者スパルタ
今回は、スパルタと秦の軍勢を両者とも1万人として戦います。戦場は、乾燥した見晴らしのよい草原です、、二つの軍団が、1キロメートルの距離を開けてテレポートしてきました。
最初に相手を敵と認めたのは、スパルタ軍でした。3列12名の最小のファイルが、左から順番に4列、まるで生き物のような滑らかさで整列してゆきます。
こうして完成した144名編成の最小単位のlochosは、次に4つが合体して、moraという568名から構成される師団になり、さらに師団は6つ合体して3456名の1軍に編成されます。
この一連のスパルタ兵の動きは、1時間も掛らない間に行われました。スパルタは1万人なので、3つの軍を持っている事になります。
一方の秦は、中華伝統の歩兵主体の陣形で対抗
秦側は、見慣れない軍団に驚きましたが、北方の羌(きょう)族か何かの一分派だと判断したようで、迎撃態勢に入りました。
中華伝統の大多数の歩兵を全面にして、両翼を騎兵で補う形ですが、秦は、歴史上弩兵の熟練度を重視していたので正面の1000名の歩兵は全て弩で武装しているという設定にしています。
1000名の歩兵を横列に、8段で8000名、左翼と右翼に騎兵を千騎、そして、歩兵の後方に、戦車を100両用意してあります。
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スパルタ兵、弩兵の攻撃をモノともせず突進
スパルタ兵は、ラッパの合図で前進を開始します。144名で編成されるlochosが70部隊、それが一糸乱れぬ規律を保ち、一気に、秦軍に向かって襲いかかります。
間合いが100メートルを切った段階で秦の最前面を守る1000名の弩兵が一斉射撃を行います。雨のように矢が降り注ぎ、スパルタ兵の最右翼にいる兵がバタバタと倒れます。これは、スパルタ兵が盾を左手で持って左側の味方を守るためで、もっとも右側にいる兵は敵に自分の全身を曝すという形になるからです。
鉄の精神力!少しも怯まず、スパルタ兵が秦兵に襲い掛る
ところが、スパルタにとっては新兵器である弩の攻撃にもスパルタ兵は怯まず大多数のlochosが秦軍の前線に殺到しました。すぐに、弩兵は背後に下がり、鉾(ほこ)と戟(げき)で武装した1000名の歩兵がスパルタ兵に立ち塞がります。
個人の技量では、鍛え抜かれたスパルタ兵に及ばない秦兵ですが、一斉に鉾と戟を突きだし、スパルタ兵を奥に侵攻させまいと頑張ります。この辺りは、冷酷な厳罰と厳正な規律によりコントロールされている秦兵です。
じりじり、下がり、スパルタ兵を迎撃する秦兵に疲れが出る
しかし、70にも及ぶ、スパルタのlochosは、意志を持っているかのように、縦横無尽に秦兵に襲いかかります。これも、何十年と同じ兵舎で訓練を受けるスパルタ兵ならではの機動力と団結力です。秦軍は、これに対して、左右の騎兵を出撃させ、秦軍の周辺に群がるlochosを撃破しようとします。
秦、騎兵と戦車部隊により、スパルタ兵を力で粉砕、しかし・・
スパルタは歩兵だけで騎兵を持ちません、左右二千の秦の騎兵に翻弄されます。そこをチャンスと見た秦の将軍は、鐘を叩いて歩兵部隊を一斉に退却させ、背後に控えさせていた100両の戦車を一列に並べてスパルタのlochosに突撃させていきます。
秦の戦車隊は訓練されていました、最左翼を軸として大鎌で草を刈るように100両の戦車が方向転換を繰り返しlochosを踏みつぶしていきます。
容赦のない戦車の突撃に突き飛ばされ、砕かれ、もしくは戈によって、体を裂かれて多くのlochosがバラバラに崩壊してしまいました。70あった、lochosの中で原型をとどめているものはありません。後は、押し下げた歩兵を再び編成して崩れたスパルタ軍を押し潰せば勝負ありと秦軍の誰もが考えました。
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スパルタ兵、バーサーカー化し、指揮官を狙い出す
しかし、バラバラになったスパルタ兵は、逃げだすどころか、銘々が秦軍の指揮官とおぼしき人間に飛びかかり始めました。
「Στόχος του διοικητή!!」 (指揮官を狙え!)
「Η άτυπη κεφάλι βλαστός!!」(頭を撃ち砕け!)
生き残ったスパルタ兵は、兜を脱ぎ捨て、盾を放り出すと、雄たけびを上げながら、それぞれが蜘蛛の子を散らすように戦車や、騎兵、それに歩兵で指示を出しているとおぼしき秦兵を狙い撃ちしだします。
秦兵の99%は徴兵された農民兵、確かに500年の戦乱で鍛えられているとは言えその多くは、上官の命令に従って動く兵士ですが、逆にスパルタ兵は兵士である前に個々の戦闘力も高い戦士です。
lochosが崩壊したので、スパルタ兵は戦士として個々が独立し、システマチックに動く秦軍の弱点である指揮系統を狙い始めたのです。戦車や騎兵では、まとまったlochosは攻撃できても自由自在に動く1名のスパルタ兵を狙うのは、容易ではありません。捨て身になったスパルタ兵は、アドレナリンを噴き出しながら秦兵を罵り、騎兵に飛びついて、馬から引きずり落とし、または戦車に飛び乗ってこれをひっくり返しました。
秦軍、指揮系統を喪失・・
すでに将軍の命令を伝達する士官は軒並みスパルタ兵に殺されています。秦の司令部は、細かい指示を出そうにも出せない状況になりました。命令のない秦の兵士は、ただ、うろうろしてスパルタ兵の攻撃から逃げまわるばかりで機能していません。
その状況で、秦の将軍は焦り、一時退却して編成を立てなおそうと鐘を叩き鳴らしてしまいました。何の指示もない限り、鐘を鳴らすのは退却の合図です。「もはや、敗北した」と早合点した秦兵は、戟や鉾を投げ捨てて、バラバラに逃げ始めました。
秦の将軍は誤りに気がつきますが、もう手遅れです。怒号をあげ、「逃兵就斬!」(逃げる者は斬る!)と言いながら押しとどめようとしますが、その流れは止まりません。
そこで、秦の将軍が見たモノは・・
秦の将軍は、逃げ去る秦兵の向こうに信じられないものを見ました。それは、いつの間にか復活していた、lochosです。数は、半分程度に減りましたが、またたく間に隊列を整えたスパルタ兵は、将軍の周辺にいた500程度の精兵に襲いかかり瞬殺しました。
スパルタ対秦の勝敗
スパルタ 戦死2000名、負傷1400
秦 戦死3000名 負傷2500 将軍死亡:軍壊滅
戦闘結果、、スパルタ軍の圧勝
春秋戦国ライターkawausoの独り言
個々人が戦士であり、同時に兵士であるスパルタ兵と、徴兵された兵が99%で、1%の職業軍人を指揮官として戦う秦が衝突した場合、やはり、どうしても訓練の差が出てきたようです。
もっとも、全てはkawausoの脳内の出来事であり実際に戦うとどうなるかは、全く分かりませんけどね。
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