三国志の時代は各地の群雄が天下統一を目指して戦いに明け暮れた時代です。戦いに明け暮れた時代でありますが、多数の名言を残した時代でもあります。
今回は三国時代に散らばっている名言と名言を述べた人物の背景を紹介していきたいと思います。第一回は悪逆非道の限りを尽くした董卓(とうたく)が述べた名言と意外な素顔を紹介します。
この記事の目次
悪逆非道の暴君董卓の意外な素顔
董卓は人が思いつくあらゆる悪逆非道を行います。正史三国志を書いた陳寿は「性格は残忍で、記録に残っている歴史上の人物でこれ程悪い人間はいないだろう」と評価。彼はこれ程の評価を受けていたのですが、実は董卓若い頃はかなりいい人間でこんな名言を残しています。
董卓の若かりし頃はデブじゃない
董卓は隴西郡と言う中国の西の生まれです。彼はデブのイメージが強いと思いますがそんな事はありません。董卓は若い時はデブではなく細身の筋肉質の肉体で、馬にひらりと乗れるほど乗馬が得意でした。さらに力が強く馬に乗りながら左手と左手で弓を引くことができ、その強さに周りは恐れたそうです。
その強さから怖気(おじけ)づかない性格と武芸の強さを見込まれ将校に取り立てられます。その後数々の戦で大いに活躍し、実績を積んで行きます。
羌族の当主から尊敬を集める董卓
董卓は後年洛陽や長安で行ったような暴虐で悪い事をしているイメージが強いと思います。しかし若いころはそんなイメージは全くなく、暴虐な人間とはかけ離れた人間でした。董卓は若い頃に異民族である羌族が住んでいる地域を周り、各地に住んでいる羌族の頭領と親交を結びます。
ある日羌族の頭領が董卓の家を訪れます。董卓の家は貧乏であり、彼らをもてなす用意ができませんでした。彼は悩んだ末農耕用に使っていた牛を殺し、もてなします。彼らは董卓の好意に感激し、自らの領地に帰った後彼の家に農耕用の牛や酒を贈ります。このように若い頃は人望を得ていた人物でした。
関連記事:董卓は実は名将軍であるという根拠
関連記事:後漢末の貨幣経済を破綻させた、董卓の五銖銭(ごしゅせん)
反乱軍平定で功績を挙げる董卓
彼は韓遂(かんすい)らが反乱を起こした際、自ら軍勢を率いて彼らの反乱を平定。朝廷から褒められます。また中国の西方には異民族が多数存在し反乱を繰り返し起こしていました。董卓は軍勢を率いて異民族と繰り返し戦います。
関連記事:三国志に出てくる羌族ってどんな民族?
関連記事:馬超や曹操と因縁が深い氐族(ていぞく)
「為すはすなわち己なるも有するはすなわち士なり(この手柄は俺が挙げたが、褒美はみんながもらうべきだ」by董卓
董卓は反乱を平定し名声を挙げます。そんなある日西方の漢陽郡と呼ばれる地域で羌族が大規模の反乱を起こします。董卓は羌族の反乱を平定するため出陣します。彼は羌族を激しく攻め立て、反乱を鎮圧します。
朝廷は反乱鎮圧で実績を上げている董卓を報奨し、9000の絹を与えます。董卓はこの褒美をもらった時に彼らに対して上記の言葉を述べます。現場の辛さを味わった事のある彼だからこそ部下に対して、優しい言葉をかける事が出来たのでしょう。彼の部下は董卓の思いやりのある言葉を聞き、大いに感激し、泣き出す将校までいる程でした。
関連記事:沙摩柯(しゃまか)武蛮族の王|甘寧を討ち取り呉を恐怖に陥れる
関連記事:五胡十六国の火種は曹操が撒いた?各時代の異民族を紹介
三国志ライター黒田廉の独り言
董卓の意外な一面を彼の名言と共に紹介しました。彼の若い頃には悪い逸話よりもいい話が多く他にもこんな話が残っております。董卓はまじめにしっかりと田畑を耕して生活をしていました。そんなある日いつもと同じように畑を耕していると畑の中から一振りの刀を発見します。
この刀を後年、学者である蔡邕見せた所、西楚覇王項羽の刀であることが判明するのです。董卓はこの刀を宝としてしまい込むのです。彼は陳寿の言う通り、洛陽に入城したころから悪逆非道をはじめ変貌をしていきます。しかし若い頃はそんな悪い人間ではなかったのです。今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~♪