五胡十六国の火種は曹操が撒いた?各時代の異民族を紹介

2015年7月27日


 

城 銅雀台

 

中国の歴史というと漢民族の歴史と思いがちですが、それは誤りです。

歴史を細かく見ていくと、漢族は中原の支配者の一つではあっても、

絶対的な主ではない事が分かります。

 

論より証拠、支配者が変わり続けた中国大陸の歴史を見てみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秦は元々、漢民族では無かった?

始皇帝 はじめての三国志

 

秦は紀元前900年頃、周の孝王に仕えた非子(ひし)という人を先祖にします。

彼は馬の繁殖が得意で、その手柄をもって孝王に嬴(えい)の姓を貰い

大夫になり秦の土地に領地を貰いました。

 

馬の繁殖が得意という農耕民らしくない点や、

当時は辺境だった秦に領地を貰ったという点は、

非子が遊牧民族であった可能性を伺わせます。

 

元々、秦の土地である現陝西省には、西戎(せいじゅう)という異民族がいました。

周の幽王を滅ぼした民族ですが、秦はここに封じられたので

中原の諸候から嫌われて、長い間、差別されました。

 

人気がないので秦は人材登用に力を入れ、実力主義で

人間性には多少目をつぶった結果、亡命してきた人間や、

中央にいられなくなった実力者が秦に大勢やってきて、

やがて天下を獲ったのは周知の通りです。

 

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漢の高祖・劉邦も勝てなかった、北方の匈奴

劉邦と劉備

 

秦は、無理な大土木工事や、厳し過ぎる政治に

庶民の不満が爆発僅か15年で倒れてしまいます。

 

その後、漢の劉邦(りゅうほう)と、楚の項羽(こうう)が

一大決戦をし、劉邦が天下を統一漢帝国が建国されます。

 

しかし、国内は兎も角、北方では匈奴が猛威を奮っていました。

 

劉邦は、匈奴と雌雄を決しようとしますが、当時の匈奴の英雄

冒頓単于(ぼくとつぜんう)の前に軍を破られて包囲され、

捕虜にされてしまいます。

 

劉邦は毎年多額の贈り物をする事を条件に匈奴と和睦します。

これは、漢の武帝が匈奴を追い払うまで70年近くも続きます。

 

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異民族花盛り、五胡十六国時代

西遊記 三国志

秦が倒れて、漢の時代に入り、間の新を挟んで後漢の時代も末になると

外戚と宦官の勢力争いから中国は乱れ、三国時代に突入します。

 

争乱は100年続き、西暦280年に司馬炎(しばえん)により

中国は再統一され晋が建国されますが、これも長い間続かず、

建国から30数年で崩壊してしまいます。

 

真空状態になった中原に一気に周辺の異民族が中国に流れ込んできます。

 

五胡とは匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)

羌(きょう)の五つの異民族を意味しています。

 

それぞれの民族が立てた十六国の内訳は以下の通り

 

匈奴 ・・・・前趙、夏、北涼

鮮卑 ・・・・前、後燕、南燕、南涼、西秦

羯・・・・・・後趙。

氐・・・・・・前秦、後涼、成漢

羌・・・・・・後秦

漢族・・・・・前涼、西涼、北燕

 

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五胡十六国の火種は曹操が撒いた?

曹操 五胡十六国

五胡十六国時代の発端は、実は三国時代にもありました。

魏の曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)は戦乱で荒廃した土地を

開墾する為に、北方の異民族を漢の領土に移住させます。

 

ですが、この時に、異民族をそのまま移住させてしまい、

戦乱の時には兵力として使っていたので、国が安定している間はいいのですが

晋の時代になって、戦乱が起きると、彼等移住した遊牧民は

簡単に反乱を起して、王朝を立てるのが可能になったのです。

 

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五胡十六国時代の結末は?

ヤンキー曹操

 

五胡十六国時代は135年も続いたので

ここで全ての内容を書くのは控えようと思います。

 

長い戦乱の中で、羌族の姚萇(ようちょう)の建てた後秦と、

鮮卑族の慕容垂(ぼようすい)の後燕が二大勢力になります。

 

しかし、ダークホースとして、同じ鮮卑族の拓跋部(たくばつぶ)から

北魏が勢力を伸ばし、また、匈奴の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が

夏を建国して、これらの後秦、後燕を滅ぼしていき、

華北は北魏と夏の一騎打ちになります。

 

最期には、北魏の拓跋燾(たくばつ・とう)が夏を滅ぼして華北を統一します。

一方の華南地方は、漢民族の東晋から、宋の劉裕に禅譲が行われて、

以後は華北の北魏と華南の宋がにらみ合う南北朝時代になります。

 

 

南北朝時代から、統一国家 隋へ

 

西暦439年から589年までの150年間を南北朝時代と言います。

この間、華北では北魏が東西へ分裂した後、北、北周に取って代わられます。

一方の華南も安泰ではなく、宋から斉、梁、陳と政権が交代していきます。

 

華北が鮮卑系と鮮卑以外、そして漢族のいがみ合いだったのに対して、

華南は、一貫して漢民族同士で政権が奪い合われた違いがあります。

 

 

400年ぶりに中国を統一した隋は鮮卑系

 

 

華北の北周から出た将軍、楊堅(ようけん)は北周の皇帝が、

暗君である事で人望を得て、勢力を拡大して北周から禅譲をうけて、

西暦581年、隋を建国します。

 

そして西暦589年には、次男の煬広(ようこう)に

五十一万の大軍を与えて、華南の陳を滅ぼします。

 

ここで、中国は西晋が滅びてから273年、後漢の混乱から考えると

実に400年近い、分裂の時代を終えるのですが

この隋の建国者、楊堅は鮮卑族の出身でした。

 

 

隋、煬帝の暴政で倒れて、唐が建国するが・・

 

この隋は、二代目、楊広が即位して煬帝(ようだい)になってから

度外れた贅沢と戦争を繰り返したので各地で反乱が頻発します。

 

その中から、煬帝の親戚である、八柱国の唐国公、李淵(りえん)が

台頭し煬帝を滅ぼして、唐を建国します。

 

この李淵も、元の氏は李ではなく大野(ダイヤ)氏といい、

鮮卑系の一族であるという見方が大きいです。

 

唐は300年近くも続きますが、漢民族の天下は、

まだまだ遠いのでした。

 

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はじめての漢王朝

 

 

 

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