呉のラストエンペラーは董卓(とうたく)を超える「暴君」として名を刻んだ孫晧(そんこう)です。しかし彼は本当にただの「暴君」であったのでしょうか。何か隠された暴君ではなかったのか調べてみたいと思います。
この記事の目次
最後の皇帝として帝位に就く
孫晧は孫権(そんけん)の孫で、諸葛恪(しょかつかく)の不用意な発言で殺された孫和(そんか)の息子です。三代目皇帝孫休(そんきゅう)の時彼は鳥程侯(うていこう)に任じられます。そして孫休が亡くなると、彼の遺言を聞いた濮陽興(ぼくようこう)は、万彧に相談します。呉はこの時、蜀が滅び、呉の最南端である交州は魏の領土になっており、名君と呼ばれる皇帝が出現しないと今の情勢は乗り切れないと濮陽興は思っておりました。そのため孫休の幼い息子を帝位に就けるわけには行かなかったのです。万彧は濮陽興から相談されると少し考えた後、話し始めます。彼は鳥程の県長をしていた事がきっかけで鳥程侯・孫晧と親しい間柄になります。万彧はこの時の印象を「彼は小覇王と諸侯から恐れられた孫策に似ている。さらに彼は学問を好み法律をよく順守している」と濮陽興に伝えます。その事を聞いた濮陽興は孫休の息子を帝位に就けず、孫晧を帝位に就けます。こうして呉のラストエンペラー孫晧が誕生するのです。
民に施しを与えるなど、名君ぶりを見せる
孫晧は帝に就くと初めに行った事は人を殺す事ではなく、民に施しを行います。呉の国が管理している倉を開き、貧しい民に食料を施し、妻が居ない民に妻を娶らしたり、名君ぶりを見せます。孫晧を帝に就かせた濮陽興と万彧は彼の名君ぶりを見て安心します。しかし、彼はすぐに名君ぶりを辞め、突如変貌します。
「暴君」孫晧の始まり
孫晧は名君ぶりを見せ、民と群臣に期待を持たせますが、突如変貌を遂げます。酒におぼれ、美女を後宮に侍(はべ)らせ、気に食わない家臣が居ればすぐに殺害する暴君へと変身を遂げます。万彧は孫晧に「濮陽興は陛下を帝位に就けたことを後悔しています。」と讒言します。この讒言に激怒した孫晧は濮陽興を殺害。また孫晧は孫権が定めた首都・建業を突如武昌へ遷都します。武昌は建業と比べて山ばかりで平地は少なく、土地はやせていました。遷都が完了してから数か月後、呉の丞相である陸凱(りくがい)が「建業にお戻りください」と強く進言した事で、呉の首都は再び建業へ戻ります。
呉の滅亡が近づく
孫晧の暴君ぶりにも負けず、呉の国を必死に支え続けてきた宰相陸凱が亡くなります。陸凱が亡くなってから五年後、呉の最後の名将であった陸抗も亡くなります。こうして呉の滅亡は刻一刻と迫ってきているのでした。
【次のページに続きます】