盟友呉広の死
呉広は陳勝から離れ、滎陽を攻略していました。李斯(りし)の息子李由は滎陽を懸命に防衛します。そのため呉広は滎陽攻略がはかどらず、いたずらに時間ばかりが過ぎていきます。そして周文敗報の知らせが呉広の元に入ります。
また周文を破った秦の軍勢が近づいてきている事も知らされます。呉広の配下達は田臧(でんぞう)を中心に集まり密謀を企てます。田臧は諸将に対し「呉広の兵の扱いでは10年たっても城は陥落させるのは不可能であろう。そして後ろから秦の軍勢がやってきている。このままでは我らは敗北してしまう。そこで呉広を殺害し、指揮権を奪って秦と戦おう。」と諸将を誘います。
諸将は田臧の意見に賛成。田臧は呉広を殺して、彼の首を陳勝の元へ送り、軍の指揮権を奪います。陳勝は呉広の首を見て大いに悲しみますが、ここで田臧のやり方を拒否する訳には行かず、彼の行いを認め宰相に任命します。こうして指揮権を手に入れた田臧ですが、章邯軍の前では手も足も出ず、撃破され、田臧は討たれます。
章邯の快進撃
章邯は各地で反乱を起こした賊の軍勢を撃破。邪魔者を片付けた章邯はついに張楚王陳勝の本拠地に向けて進軍を開始。まず手始めに、蔡賜(さいし)を撃破し、討ち取ります。次に張楚の首都の西方で迎撃の陣を敷いていた張賀に攻撃を開始。陳勝はこの時張賀を助けようと援軍に向かいます。しかし章邯の圧倒的な攻撃の前に敗れてしまいます。張賀は討たれ、陳勝は命からがら逃げます。
陳勝の最後
陳勝は章邯に敗北すると、首都陳に戻らず南下します。下城父を過ぎてさらに南下を続けている途中で従者に殺害されます。こうして秦全土を揺さぶった陳勝と呉広の反乱は鎮圧されます。その後秦は滅亡し、漢帝国が天下を統一します。
劉邦(りゅうほう)は天下統一すると陳勝を丁重に葬り、彼が亡くなった場所周辺に民家を立て、代々墓守を置いたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
陳勝と呉広この二人が起こした反乱はあまり長続きしませんでした。しかし、死ぬ気で策をめぐらして独立を果たします。こうして独立を果たした二人は秦の国内に亀裂を入れます。彼らの反乱のおかげで、劉邦や項羽が活躍する事が出来たのです。その後陳勝と呉広は共に亡くなってしまいますが、彼らの夢であった王や将になる事ができ、歴史に名を刻む事が出来たのです。
「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」の言葉通りの人生を歩むことはできたのではないでしょうか。
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