今回紹介するのは北斗の拳に出てくる、ラオウの次男トキを…ではなくて魏の地方官で民衆から慕われた名行政官・杜幾(とき)を紹介します。褒める事においては誰にも負けない曹操から「前漢の簫何(しょうか)に匹敵する功績を残した」とべた褒めされた行政官です。彼は一体どのようにして曹操からべた褒めされるほどの実績を残したのでしょうか。
この記事の目次
継母にいじめられた青年期
杜幾(とき)は杜陵(とりょう)出身の人で、父を早くに亡くします。父が亡くなると継母(ままはは)と共に荊州へ住まいを移します。荊州に着くと継母に何かにつけていじめられ、辛い幼少期を過ごします。杜幾はいじめられた記憶しかない継母が亡くなると、彼女の遺体を背負って故郷に戻って遺体を埋葬します。
友達の推挙で官職に就く
杜幾は河東郡の張時の推薦によって功曹(こうそう=人事局長)の役職に就きます。しかし彼は闊達で、細かい事を気にしない性格であったので、人事局長の役職である功曹に就いても、あまり評判は良くありませんでした。張時は側近に「杜幾を功曹に任命したのは失敗であった」と語ります。杜幾はこの噂を聞き、「俺は功曹には向いていないかもしれない。しかし河東の太守なら俺に適任だ」とこっそりと言い放ったそうです。その後彼は功曹の役職を辞めて、郷里へ戻ります。
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荀彧の推挙を得て、曹操に仕える
杜幾は故郷に帰った後、許に居る耿紀(こうき)の元を訪れ、一晩中語り明かします。彼と耿紀の話は全て隣の家に聞こえておりました。耿紀の家の隣に住んでいたのは荀彧(じゅんいく)です。
彼は杜幾の見識が深い事に感心し、翌朝杜幾を呼びに行かせ「わが主である曹操に仕えませんか。」と聞きます。杜幾は荀彧の質問に快諾。こうして杜幾は荀彧に見いだされ、彼に仕える事になります。
幷州の反乱
袁紹死後、彼の甥である高幹(こうかん)は幷州(へいしゅう)で反乱を起こします。彼は河東の人である衛固(えいこ)と范先(はんせん)に河東で反乱を起こすよう命令。彼らは河東太守が任地を離れていることを幸いに、この地の乗っ取りを考えます。
曹操の悩み
曹操は幷州の高幹が起こした反乱に連動し、河東で不穏な動きをしているとの情報が入ります。彼は河東の土地が守りに非常に適した地で、もし河東で反乱が起きた場合、劉表や涼州の独立勢力と手を組むと非常に厄介なことになるため、悩んでおりました。曹操はこの悩みを解決するべく荀彧を呼んで相談。すると彼は「杜幾を河東太守にして現地に派遣すれば、物事は収まるでしょう。」と進言します。曹操は荀彧の進言を受け入れ、杜幾を河東太守に任命し、現地に派遣します。
杜幾の策略
杜幾は河東太守に任命されると、一人で任地に赴きます。彼は任地に着くと不穏な動きをしていた衛固を人事局長である功曹に任命。また范先には兵の指揮を任せ、二人に対して「君達が行っていることに私は口出ししない」と伝えます。彼は杜幾が何も口を出さないと発言した事に喜び、幷州で反乱を起こした高幹に同調する為、準備を進めます。杜幾は反乱勢力である彼らにバレないよう、二人を上手く操り、衛固と范先が集めた兵力を分散させることに成功。その後河東近隣の情報を集め、杜幾に味方していることを確認した後数十騎を従えて、張辟(ちょうへき)の地に立てこもります。当初数十騎しかいなかった兵力は近隣からの援軍や住民らが参加したため四千人ほどに膨れ上がります。衛固と范先は杜幾が立てこもる張辟に猛攻をかけますが、陥落させる事はできませんでした。籠城戦を開始してから数十日後、夏侯淵の軍勢が援軍に現れ、張辟を包囲していた軍勢を破ります。
荒廃した土地の回復に努める
杜幾はこうした反乱で、荒廃した河東の土地を回復させるため、民衆に恩恵を与える事を柱とした統治を行います。孝行した人や行いが良い民を顕彰し、牛馬の育成に励みます。こうした政策が成功し、河東は民力を回復します。杜幾は民力が回復し、民が普通の生活を送れるようになると「戦乱で荒廃した土地は元に戻り、民衆は豊かになった。次に行うべきことは教育と防衛力強化だ」と側近に言います。彼はすぐに実行し、農業の刈り入れ時ではない冬に軍事教練を民衆に施します。その後学校を開いて、杜幾自ら教科書片手に子供や青年らに物事を教えていきます。
曹操から称賛される
曹操は馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)ら涼州の豪族達の討伐を開始します。曹操はこの討伐戦の兵糧を杜幾が治める河東から供給させます。また杜幾は張魯討伐戦の時には、曹操軍の兵糧輸送の役目を河東の住民を使って行います。河東から関中まではかなりの距離があり、当時兵糧運搬の役目はかなりの重労働で、脱走する者が多い仕事でしたが、河東の民衆は一人も脱走せず、この役目を見事に果たします。曹操は杜幾を呼んで「あなたは前漢の簫何に匹敵する働きを行っている」と称賛します。
長年の功績を認められる
曹丕(そうひ)が皇帝に立つと、河東太守として長年勤めて来た実績が認められ、杜幾は豊楽亭侯(ほうらくていこう)を授かります。そして曹丕が呉の討伐を行っている間、尚書僕射(しょうしょぼくや)に昇進し、政務代行を命じられます。その後曹丕が首都を留守にした際には、政務の代行を命じられます。
名行政官の最後
杜幾は曹丕から「私が乗る船を作ってほしい」と命じられます。彼は曹丕の命令を受け、天子が乗る船である樓船を建造します。その後試運転を陶河(とうか)で行った際、強風にあおられて船が転覆。杜幾は助からず、亡くなってしまいます。曹丕は自らの命令で杜幾が亡くなってしまった事を大いに悲しみ、彼に戴侯(たいこう)の諡(おくりな)を贈ります。
三国志ライター黒田廉の独り言
杜幾が亡くなる際の逸話が「魏氏春秋」に残っています。彼は昔、一人の子供と出会います。この子供は「命を司る神があなたを連れてこいと言っています」と杜幾に伝えます。杜幾は「まだ私は死ぬわけにはいかぬ。何とかならないか」と伝えます。するとこの子供は「あなたの代わりになる人を見つけてきましょう。その代わりに今日ここで私と会った事は誰にも言わないでください」と他言しないようにお願いされます。杜幾は頷くと、子供はフッと消えます。その後杜幾はこの出来事をうっかり人に話してしまいます。するとその日に船は転覆し、彼は亡くなってしまったという不思議なお話でした。
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