【曹魏クロニクル】220年~239年までの魏の歴史を紹介

2018年1月10日


 

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三国志最大の領土を保有した魏は曹丕(そうひ)が初代皇帝として君臨。
そして曹丕亡き後、二代目皇帝に曹叡(そうえい)が就任します。
しかし曹丕・曹叡の時代にどのような戦いがあったのか三国志初心者の方は知らないと思います。
そこで今回は、この初代・二代目の皇帝の実績を三国志初心者の方でも、
わかりやすく実績をまとめざっくりと年表として作成してみました。

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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黄初元年(220年):曹操死す。曹丕が跡を継いで皇帝へ

 

曹丕は曹操が亡くなると跡を継いで魏王へ就任。
曹丕は後漢王朝の皇帝から皇帝の位を譲られることに。
こうして曹丕は魏国を建国することになり、
魏の初代皇帝として君臨します。

 

黄初四年(223年):孫権討伐が失敗に終わる

 

曹丕は魏に臣従していた孫権が曹魏に対して反旗を翻したことに激怒し、
孫権を討伐するため、黄初三年から攻撃を開始。
黄初三年から始まった孫権討伐戦は、当初魏が優勢でした。
しかし疫病の発生と孫呉が各方面で激しい抵抗を示したことで、
撤退することに。

 

 

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黄初五年(224年):リベンジに燃える曹丕。しかし・・・・

 

孫権に撃退された曹丕は再び軍勢を率いて諸国を回りながら、孫呉へ向けて出陣。
この時曹丕は諸国を回りながら孫呉へ向かっていましたが、
孫呉との国境で河が凍結して進めなくなってしまいます。
このため曹丕は孫呉討伐を諦めて撤退するのでした。

 

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黄初七年(226年):急病にかかって死去

 

曹丕はこの年の三月まで元気に政務をとっておりましたが、
5月になると病にかかり重態となってしまいます。
曹丕は後継者に曹叡を指名し、曹真(そうしん)陳羣(ちんぐん)
司馬懿(しばい)曹休(そうきゅう)の四人に後を託します。

 

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黄初七年(226年):孫呉が魏へ攻撃を仕掛けてくる

 

曹丕が亡くなると二代目皇帝に曹叡(そうえい)が君臨。
孫権は曹丕が亡くなると魏の江夏(こうか)・襄陽(じょうよう)へ攻撃を開始。
曹叡は孫権が江夏・襄陽へ攻撃した事を知っても冷静に対応します。
曹叡は江夏城を守っていた文聘(ぶんぺい)へ数千の兵士を援軍として派遣。
襄陽には司馬懿を派遣して、孫呉の軍勢を迎撃するように命令します。
孫権は曹叡がすぐに援軍を送った事を知って江夏城から退却。
また襄陽を攻撃していた孫呉の軍勢は、
司馬懿軍の苛烈な攻撃によって敗北するのでした。

 

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太和二年(228年):孟達反乱!!しかし即座に鎮圧

 

曹叡が即位した翌年。
蜀から寝返ってきた孟達(もうたつ)が反乱。
曹叡は孟達の反乱を知ると司馬懿へ命令を下します。
曹叡から命令を受けた司馬懿は軍勢を率いて、
孟達の本拠・上庸へ攻撃を仕掛け、陥落させることに成功。
司馬懿は孟達を捕えて処刑し反乱は速攻で鎮圧されます。

 

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太和二年(228年):諸葛孔明の北伐を撃退

 

蜀は孟達の反乱鎮圧後魏の領土へ攻撃を開始。
曹叡は蜀が魏の領土へ侵攻したことを知り、
曹真(そうしん)・張郃(ちょうこう)らを蜀迎撃軍として派遣。
張郃は街亭(がいてい)に布陣していた蜀軍の撃破に成功します。
蜀軍の大将・諸葛孔明(しょかつこうめい)は、
街亭の蜀軍が撃破されたことを知り撤退。
曹叡の差配によって魏軍は蜀軍を撃退するのでした。

 

青龍二年(234年):孫呉と蜀漢の二方面攻撃を撃退。孔明死す

 

青龍二年。
孫権は陸遜(りくそん)・孫韶(そんしょう)達と共に
魏の合肥新城(がっぴしんじょう)へ侵攻を開始。
更に蜀軍が孫呉の侵攻に合わせて魏の領土へ攻撃を仕掛けてきます。
曹叡は蜀軍を撃退するため、司馬懿を総大将にして迎撃へ向わせ、
孫呉には曹叡自ら軍勢を率いて対応。

孫権は曹叡が援軍を率いてくることを知ると合肥新城から撤退。
蜀軍の迎撃を命じれられていた司馬懿は孔明の死によって、
戦に終止符が打たれることになります。

 

景初元年(237年):遼東討伐を開始するも失敗。そして・・・・

 

 

曹叡は遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)へ出頭命令を出します。
しかし公孫淵は曹叡の命令を無視。
曹叡は幽州(ゆうしゅう)刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)に公孫淵攻撃命令を出します。
毌丘倹は公孫淵軍と戦いますが、大雨のせいで河川が決壊。
曹叡は、遼東地方に大雨が降って河川が決壊したとの報告を受けると、
毌丘倹を撤退させます。
公孫淵は、魏軍が撤退した事を知ると曹魏から独立してしまうのでした。

 

景初二年(238年):公孫淵を討ち取る

 

曹叡は独立した公孫淵を討伐するため、司馬懿に北伐を命令。
司馬懿は軍勢を率いて公孫淵の居城・襄平(じょうへい)を陥落させ、
公孫淵を処刑したことで北方に平穏が戻ってきます。
しかし曹叡は公孫淵が討ち取られた数ヵ月後に病を発病するのでした。

 

景初三年(239年):曹叡死す・・・・。

 

景初二年に発病した曹叡の体は持ち直すことなく、
どんどん悪化の一途をだどっていくのでした。
そして景初三年。
曹叡は瀕死の重態に陥ってしまいます。
曹叡は自らの最後を悟り、遼東討伐から帰還していた司馬懿を呼び寄せ、
皇太子・曹芳(そうほう)の事を司馬懿達に託して亡くなるのでした。

 

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三国志ライター黒田レンの独り言

 

今回は曹丕・曹叡の戦いの歴史を年表としてまとめた物を作成してみました。
かなり大雑把に作成しているので、
曹丕の時代にあったあの戦いがないじゃん。
曹叡の時にあった魏と孫呉の戦いがない。などの声があると思います。
しかしこの年表は詳細に記しているものではなく、
三国志初心者でも簡単にわかりやすく曹丕・曹叡の時代を知れるようにするため、

詳細に戦いを記載しませんでした。

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書 今鷹真・井波律子訳など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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