西遊記とは、簡単に言うと、猿と豚と河童と、
お坊さんと馬が力を合わせて、行く手を邪魔する妖怪の妨害をかわしつつ、
インドに経典を求めて、ひたすら旅をする冒険伝奇活劇です。
しかし、西遊記は、元々、孫悟空も沙悟浄も猪八戒も存在しない
一人の僧侶の苦難の旅を記した記録でした。
では、それが、どうして娯楽活劇の西遊記に変化して行ったのでしょう。
この記事の目次
西遊記の元ネタになった、玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)の旅
西遊記の舞台は、西暦600年代初期の中国から、
中央アジア、インドに及ぶ広範囲の世界です。
この困難な旅を成し遂げて、インドから経典を持ち帰ったのが、
玄奘(げんじょう:602~662年)というお坊さんです。
彼は629年、27歳の時、余りにも仏典が足りず、仏教の解釈に
誤りが多い中国仏教の状態を嘆き、研究の拠り所になる原典を
求めたいという動機から、天竺(インド)行きを決意します。
当時は、唐(とう)が成立し、300年に及ぶ動乱が終結した時代でした。
まだ政情不安定な時代なので、唐は玄奘の天竺行きに許可を出しません。
しかし、玄奘は、中国に正しい仏教を広めたいという情熱止み難く
ついに国禁を犯して、国外に出てしまいます。
お坊さんなのに、率先して法律を犯してしまうのです。
ここに、玄奘のパワフルさが表れていますね。
苦節17年に及ぶ、玄奘の旅路
玄奘は、役人の監視を逃れながら、河西回廊を経て、高昌(こうしょう)国に入ります。
時の高昌王であった麴文泰(きく・ぶんたい)は、熱心な仏教徒でした。
玄奘の熱意に感動した麴文泰は、玄奘を資金面で援助する事にし、玄奘は、
西域の商人に混ざりながら、天山南路の途中から峠を越え、天山北路へ渡り、
中央アジアを通過し、ヒンドゥクシュ山脈を越えて、無事にインドに入ります。
こうしてインドに入った玄奘は、アジア最古の大学、ナーランダー大学で
戒賢(かいけん)という仏教徒に師事して、仏教を学びます。
こうして、仏教を納めた玄奘は、657部という経典を得て西域南道を
通過して、西暦645年、長安に帰還します。
唐の太宗は喜び、玄奘に旅のレポート提出を命じる
国禁を犯した玄奘は死刑を覚悟した上での帰還でした。
しかし、十七年間で、唐の方針もだいぶ変化していて、
二代皇帝、太宗(たいそう)は、多年に及ぶ、玄奘の苦労をねぎらい、
罪を不問にします。
ですが、これには裏がありました、太宗は、広く西域、天竺を旅した
玄奘の国際情報を知りたがり、玄奘に「側近として仕えないか?」
とスカウトしています。
玄奘は、「私には持ち帰った仏典を中国語に翻訳する使命があります」と
断りましたが、太宗は、ならば、十七年間で、そなたが、見聞した
諸国の事をまとめたレポートを提出せよと命じました。
大唐西域記(だいとう・せいいきき)が玄奘により書かれる
玄奘の経典翻訳は、唐王朝の力を借りないと出来ない事でした。
そこで、玄奘は経典を翻訳する傍らで、大唐西域記を執筆します。
玄奘が十六年間で訪れた国は、百十カ国、さらに伝聞した二十八国、
それに付記、十六ヶ国という、合計、百五十四カ国に上ります。
玄奘は、これらの国の成り立ちと風習、政治体制や民俗などを
詳細に記録しました。
この大唐西域記は、7世紀当時の中央アジア、インドを理解する上で
重要な史料として、現在まで伝わっているのです。
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