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疑惑5 荊州で関羽が率いていた謎の兵団
曹操の追っ手を逃れて、荊州の劉表(りゅうひょう)を頼った、劉備と関羽ですがその劉表も西暦208年に病死します。すると、跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は、曹操に降伏して、曹操の大軍が、荊州になだれ込む事になります。
劉備は、この時に樊城に居ましたが、知らせを聴いて仰天し、食糧の備蓄のある南の江陵(こうりょう)に落ちのびようとしました。蜀書、関羽伝では、この時、劉備は関羽を数百の船に乗せて、江陵で落ち合おうと出発させています。
さらっと書いていますが、何でまた、この非常時に、劉備と関羽は別行動なんでしょうか?曹操の大軍を前にすれば、一つに固まった方が安全だと思います。もしかして、劉備と関羽の兵は指揮が別々であり、関羽は独自の判断で劉備とは、別ルートを取ると決めたのではないでしょうか?
船の数から考えると、関羽の直属兵は、3000名
そして、数百隻の船に乗せて行くという事は、ここには、関羽の直属の兵が分乗したとしか受け取れません。小舟程度だとしても、一隻に10名乗れるとすれば、300隻で、3000名はいる事になります。これは、劉備とは別の関羽直属の兵という事だと思います。その後、劉備と関羽は夏口で合流していますが、合流しても、劉備は関羽の兵を吸収したような様子は描かれていません。つまり、樊城で別行動を取った関羽は、劉備から分けた兵ではなく自前の兵力を保有していたという事になるのです。
疑惑6 荊州南郡の制圧は、関羽の手柄だった・・
赤壁の戦いで、孫権と共同戦線を張って、曹操を撃退した劉備は、どさくさで荊州南郡を支配します。蜀書、先主伝では、曹操軍に追いつかれた劉備が妻子を捨て、趙雲達の僅か数十騎で逃亡した事が記されています。つまり、大惨敗であり、事実上、赤壁で頼れたのは関羽の軍だと考えて間違いないでしょう。この時に荊州南郡を攻略するのに大きな働きをしたのは関羽だったのです。南郡を得た劉備は、重臣達に大幅な加増をします。関羽は、ここで襄陽太守、盪寇(とうこう)将軍となり長江北岸に駐屯しました。
関羽からすれば、当然の加増だと思った事でしょう。第一に襄陽は荊州の州都で中心地です。これは、赤壁における一番手柄が関羽の手によるという、労いの意味だと思います。
疑惑7 関羽は横暴になったのではなく、群雄になった。
さて、荊州の襄陽太守になった関羽は、この頃から傲慢な態度が増えます。孫権が自分の息子を、関羽の娘と結婚させたいと申し出ると、その使者をボロクソに罵って、孫権を激怒させています。また、縻芳(びほう)や、傅士仁(ふしじん)というような武将を軽んじて、最終的に二人に背かれるというような失態もおかしています。関羽が劉備の義弟という固定観念を持つ、私達は関羽が年を取り、思考の柔軟性を失い、目上の人間に厳しく出る性格が顕著になったから、と考えてしまいがちですが、果たしてそうでしょうか?
実は関羽は、襄陽の太守となった頃から、自身は劉備の部下ではなく独立した群雄である、という考えになっていたのではないでしょうか?それならば、劉備とは同盟関係の、孫権の申し出を蹴ったのも、不思議ではなくなります。
「兄者は兄者、俺は俺、、」このように関羽は考え、虫が好かない孫権の縁談を蹴ったのでしょう。
疑惑8 関羽は、在野の勢力に印綬称号を配っていた!
西暦216年、劉備は、漢中王を自称します。そして、荊州の関羽を前将軍として、仮節鉞としました。仮節鉞(かせつえつ)は、独自に軍を動かせる権限ですが、すでに、荊州南部を実効支配していた関羽には、特に必要でも無かったでしょう。その年に、関羽は樊城の曹仁(そうじん)を攻撃しています。
この前後、蜀書関羽伝には劉備の指図も孔明の影もありません。関羽独自の行動であり、荊州北部を抑える曹操の影響力を駆逐して、群雄となった、自身の領土を拡大しようとしたのでしょう。
曹仁は危機に陥り、曹操は于禁(うきん)と龐徳(ほうとく)を派遣しますが、長雨で漢水の堤防が決壊して船を持たない于禁の軍は水没、禁は捕虜になり、龐徳は降伏を拒否して関羽に斬られます。曹操は関羽の勢いを恐れて、許から遷都しようとしたと言われ、関羽の名はこの頃、中原に鳴り響いたそうです。この時、関羽は、梁(りょう)・郟(きょう)・陸渾(りくこん)からやってきた群盗に、印綬(いんじゅ)と称号を与えて支党としたと、蜀書には記録されています。
印綬や称号は、独立した支配者でない限り勝手に配りません。部下がそれをすれば、越権行為であり、通常ならば、天下を狙う野心ありと見做されるでしょう。これは、基本、王か皇帝か、でなければ天下を狙う群雄しか発行できないものです。それを独自に鋳造して、周辺に配っていたとすれば、この時、すでに関羽は劉備の配下ではなく、荊州を領有する群雄の一人だった事にはならないでしょうか?
もちろん、それでも関羽と劉備がお互いを信頼する事は絶大でした。であればこそ、関羽が呂蒙(りょもう)に討たれると、劉備は激怒して無謀な夷陵の戦いに打って出るのです。
孫権は関羽を群雄の扱いで葬った(kawa註)2018/11/15追記
蜀志関羽伝に引く呉歴によると、曹操は孫権から関羽の首を送られると、その死骸を諸侯の礼で葬ったそうです。三国志演義は、これを踏襲して曹操が関羽を手厚く葬ったとしているのですが、幾らなんでも、かつての元部下の関羽に対して、諸侯の礼は行きすぎではないでしょうか?元々、論功行賞にシビアな曹操が死んだからと言って、関羽を破格の待遇で祀るとは思えません。しかし、別に曹操は関羽を特別扱いしていないとしたらどうでしょうか?
つまり、関羽は独立した群雄でありすでに諸侯レベルなので、それに見合った葬儀をしただけだったとしたら・・関羽がずっと劉備の部下だったのではなく、荊州南郡に君臨する王だったという説も、あながち誇大妄想ではないのではないかとkawausoは思ってしまうのです。
三国志ライターkawausoの独り言
後世に忠義の人として、伝えられる関羽ですが、それは真実の関羽を伝えているものではないかも知れません。実際の関羽は、劉備の部将というよりは、同盟者であり、そして、後半は自立した群雄だったのです。関羽の中では、中国は三国志ではなく、自身を含めた、四国志に見えていたのかも知れません。あくまでも推測ではありますが、、荊州を領有してから、急に自分勝手になったように見える関羽が、仮に群雄であったと考えると、全ての行動が、不思議に辻褄が合うのです。
もし、関羽が呂蒙に殺される事なく、呉や魏とそこそこ上手くやり、劉備の方が、先に死んでしまったら、、その後は、、孔明政権になった蜀から完全に切れて、関楚(かんそ)の旗を立てて、蜀と呉と魏のど真ん中で中原に鹿を追う関羽の姿が現れたかも知れません。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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