イデオロギー闘争と言えば、フランス革命や、ロシア革命、東西冷戦下の、
共産圏と自由主義陣営の思想戦などがありますが、それよりも遥かに昔、
中国では、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が後漢イデオロギーを唱えて、
中華を戦慄させていたという事実は余り知られていません。
そんなのありか?が満載の詭弁だらけの孔明の革命家としての側面を紹介します。
この記事の目次
正規の手続きを踏んで行われた魏漢の政権交代
三国志の時代、王朝交代には、2つのパターンが存在した事は知られています。
一つは、武力で前政権を打ち倒す放伐(ほうばつ)、もう一つは、
平和的に前政権から、権力を譲り受ける禅譲(ぜんじょう)です。
もちろん、放伐が非難を浴び、禅譲の方が理想とされた事は間違いありません。
魏の曹操(そうそう)は、当然、天下の批判を浴びたくないので禅譲にこだわりました。
その為に、自身の地位を、魏公から魏王に引き上げて、禅譲の準備を整えます。
ただ、曹操は後漢の臣であった負い目から、自分の代では、
政権を奪わず、次代の曹丕(そうひ)に禅譲を託します。
曹丕は、これを受けて後漢の最後の皇帝、献帝(けんてい)に禅譲を迫り、
後漢を滅ぼして即位し、魏王朝の建国を宣言します。
もちろん、それを悲しむ人はいたでしょうが、手続きとしては正当で
献帝も殺されず、降格はされたものの山陽公として貴族の位を維持します。
また、皇帝しか使えない朕(ちん)という一人称も、元皇帝として許されるなど
魏からも一定の厚遇を受けました。
曹丕の禅譲は、事実上可能である理想的な王朝交代として、
後の時代の手本にされます、つまり、それだけスムーズに行われた
王朝交代という事だったのです。
後漢皇帝に連なるという劉備の血統が無効になる事態・・
さて、前漢の中山靖王、劉勝(りゅうしょう)の末裔という薄っすい大義名分で、
反曹操の戦争を戦ってきた劉備(りゅうび)は、この文句のつけようがない、
王朝交代で、立つ瀬が無くなります。
劉備の大義名分は、あくまでも、曹操が献帝を操り人形にしているので、
これを倒して後漢の権威を回復させる事なので、
後漢が滅んでしまうと、薄いとは言え、後漢皇帝に連なるという
血統の優位を発揮できる前提が崩れてしまうのです。
ここで、じゃあというので、一群雄として、天下をねらうという話になると
それは益州を支配する一群閥に劉備が格下げされるという事でしかなく、
魏の建国に従わない地方軍閥を征討するという大義名分を、
魏に与える事になってしまいます。
孔明の詭弁炸裂!後漢は滅んでないやい!(泣)
これは、蜀の宰相である孔明を大いに悩ませた事でしょう。
正直、孔明は、後漢がどうなろうと知った事ではなく、
主君の劉備が天下を争う立場であればいいのではありますが、
その劉備は、後漢に連なるという血統を金看板にしていたので、
それが無効になると、ただの一群雄という事になってしまい、
今後、魏に攻め込み中原を回復するという正当性が、
はなはだ不安定になります。
そこで、孔明は、悩みに悩んだ末に、
とんでもない詭弁(きべん)に満ちた、後漢イデオロギーを持ち出します。
孔明「後漢は滅んでいない!現実に、蜀には劉玄徳がいて、
後漢皇帝の血筋を継いでいるのだから、劉備の血統が絶えない限り
後漢は滅びはしないし、魏は偽物の王朝なのだー!」
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