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永久闘争を可能にする孔明の後漢イデオロギー
これには、曹丕もポカンとします。
大体、後漢皇帝の末裔なんて、全中国に何万人いるかも分からないのです。
もし、孔明の言い分が有効なら、どんなに薄くても、後漢皇帝の血筋だと
言い張れば正式な禅譲を無効に出来てしまう事になります。
例えば、キングダムの時代の末、項梁(こうりょう)は、楚の懐王の直系の子孫である、
熊心(ゆうしん)という人物を楚王に立てて、反秦の旗頭を明確にしました。
ただ、これは、懐王の直系の子孫であり、末裔というようなあやふやな、
血統ではありません。
しかし、劉備は、三国志の時代から、400年は前、しかも皇帝ではない
中山靖王、劉勝の庶子の系譜なのですから、後漢の正統を名乗るには、
あまりにも遠すぎます。
それが、OKなら劉備でなくても、少しでも後漢の血統に連なるなら
誰でも、後漢を興す事が可能になります。
まさに、易姓革命に基づく、禅譲をも無効にする、永久闘争方式こそが、
孔明の唱えた後漢イデオロギー、孔明イズムなのです。
孔明のダブルスタンダード炸裂、呉は帝位を名乗ってOK
さて、孔明の後漢イデオロギーの最大のインチキは、
西暦229年にも表れてきます。
この年に石亭の戦いで、魏の曹休(そうきゅう)を撃破した
呉の孫権(そんけん)は、独立する自信を深め、魏から受けていた
呉王の称号を放棄して皇帝に即位したのです。
これは、後漢イデオロギーを奉じ、王朝は後漢が唯一、後は偽物!と
主張する孔明には許せない事態の筈ですが、
蜀では議論の末に、「まあ、味方は多い方がいいよね、」という
政治的妥協によって、お祝いの使者を呉に送ってしまいました。
うおおおおおおィ!!!孔明――っ!!
蜀漢だけが、中華唯一の王朝じゃあ、無かったのかァ?
魏の王朝は徹底して無視しておいて、呉はOKってのは一体どういう理屈だ?
これって、ダブルスタンダードじゃないかァァ!!
時代が進み、蜀が正統になり模倣された孔明の詭弁
それまでに確立されていた、易姓革命と、放伐と禅譲という
王朝交代のセオリーを、「俺は認めない!」という
ちゃぶだい返しでひっくり返した孔明。
さらに後漢イデオロギーを生み出し、少しでも後漢皇帝の血をひいていれば、
その後継者になりうるという永久闘争方式を生み出した天下の奇才、
諸葛亮孔明の屁理屈は、それでも、西暦263年まで、
蜀漢が存続した事で、後世に向かい孔明イズムは継承されます。
例えば、17世紀に、反清復明(清に抵抗し明を復興させうるという意味)を唱えて、
台湾に割拠した鄭成功(ていせいこう)は、その時点では、すでに明皇帝の血統者を、
奉じていたわけではないのに、清に対する抵抗運動を明の遺臣として戦い続けます。
鄭成功の死後は、息子の鄭経(ていけい)が後継者争いを制して、
父の廟を建て台湾における鄭氏政権を確立します。
もう、明皇帝、関係ないんですが、スローガンとしては、
反清復明を取り下げていません。
すでに、明の皇帝の子孫を奉じなくていいわけですから、
もう、討伐されるか抵抗をやめるまでは、延々と続く明朝イデオロギーです。
これも、孔明の後漢イデオロギーを真似たものと言えるでしょう。
そうでなくても、中国では、蜀漢正統論が優勢になり、
魏は後漢の天下を奪った怪しからん存在になり(ルールを踏まえたのに)
逆に孔明の屁理屈から生まれた後漢イデオロギーが正当化されます。
それならば、その手口を真似て賞賛されても、非難される事はないのです。
三国志ライターkawausoの独り言
意外にスルーされがちな、蜀漢建国の正統性を補完した、
孔明お手製の後漢イデオロギーを斬ってみました。
当時の常識で言えば、魏の曹丕の行動は特に非難されず、
むしろ、多くの血を流さないで行われた理想的な王朝交代だったのに、
それにより、正統性がぐらつく劉備・孔明コンビが生み出した、
ザ、ちゃぶだい返し、後漢イデオロギーが、それにケチをつけます。
大体にして、魏は認めず、呉は認める段階で破たんしているイデオロギー
ですが、イデオロギーは死にません、解釈変更や強弁で乗り切るのです。
こうして、声が大きく思い込みが強い方が優位というイデオロギーの性質は、
とうとう、魏を呑みこんでしまい、後世では魏が悪者になりました。
孔明は現実の戦争では勝てませんでしたが、思想戦では魏を圧倒した
と言えるかも知れません。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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