東京都は、井の頭自然文化園で飼育されていた日本最高齢のアジア象、
「はな子」が5月26日、69歳で死去したと報じました。
ハナ子は、1949年にタイから来日して、最初、上野動物園で飼育され、
1954年からは、井の頭自然文化園に移され現在まで至ります。
当時、上野動物園では、空襲の被害を恐れて大型の動物を薬殺していて、
動物園の花形、象も居なくなっていました。
ハナ子は、そんな中、東京都内を回り、同じ頃インドからやってきた、
インド象のインディラと共に、戦争で希望を失った日本の子供達を喜ばせました。
動物園の人気者、象の影の部分とは・・
しかし、長い間、狭い飼育部屋に閉じ込められ、多くの人間に見られるという
本来の環境とはかけ離れた場所で生活した事で、ハナ子は精神状態を崩し
飼育部屋に乱入したお客を踏み殺したり、飼育員に危害を加えるなど、
問題行動が多くなり、「ハナ子をタイに帰そう」という運動も起きていました。
その矢先の死は、動物を見世物にして自由を奪うのが、
果たして正しいのか?という重い問いかけを私達に発しています。
三国志の時代、すでに象は知られていた
日本において、はじめて、生きた象がやってきたのは室町時代の
西暦1408年、足利義持の時代だと言われます。
一方、中国では、大陸と陸続きである事から、大昔から象は知られていました。
前漢の武帝(ぶてい)は、秦の始皇帝(しこうてい)が造営した、
狩猟用の庭園、上林苑(じょうりんえん)を改築して、そこに象や犀、
虎やライオンのような周辺諸国からの献上品の珍獣を放して飼育させ、
狩猟の時の的にしたそうです。
その上林苑は、帝都長安の周辺にあり周囲150キロという広大なもので、
沖縄県がすっぽり入るほどの広さがあります。
苑内には70箇所も離宮が存在して、皇帝は狩りに疲れるといつでも、
最寄りの離宮で、休む事が出来ました。
動物園というより、ほとんど、皇帝専用サファリパークですね。
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後漢時代に入ると、都が洛陽に移り上林苑も移動
前漢が滅びて、光武帝が後漢を興すと、都も長安から、洛陽に移り、
それに従い、上林苑も洛陽の西方に造られます。
この時代も、周辺国から珍獣を集め、皇帝の狩猟場として機能しました。
この上林苑、意外な所でも名前が出てきます。
西暦189年には、あの、へそが大炎上男、董卓(とうたく)が
袁紹(えんしょう)の命令で、洛陽に召集を受けた時に、
一時、軍を駐屯させていた場所なのです。
董卓の事ですから、皇帝専用の狩り場である事など無視して、
これから始まる激しい戦いのデモンストレーションに、
上林苑の珍獣や猛獣を狩りまくったかも知れませんね。
董卓「オガッ!!象のステーキ喰いたいずら!!」
なんて、董卓あたりは、言ってたりして・・
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地方豪族も同様の苑を保有していた
また、三国志の英雄、孫権(そんけん)も狩猟が大好きで、
虎などを狩ったそうですが、地方貴族も皇帝にならい、
庭園の中に珍獣を放して狩猟したようです。
孫権も恐らく、上林苑のミニチュア版を領地内に持っていて、
狩猟を楽しんだのでしょうね。
このような事から、当時の三国志の英傑には、
象は割合身近な生き物だったかも知れません。
ただ、観覧するのではなく、獲物としての存在というのが、
動物園とは大きく違いますが・・
今後の動物と人間のあり方
子供の情操教育の一環として、野生動物に触れさせるというのは、
悪い事ではないと思いますが、象のような知能が高い生物は、
その環境でストレスを感じてしまいます。
これを何とかしないと、動物園が動物虐待の場になってしまいますね。
ハナ子の死を無駄にせず、動物と人間が心地のよく付き合える
動物園環境を考えていきたいものです。
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