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曹操の分身!夏侯惇(かこうとん)の生涯

2016年7月2日


 

曹操 夏侯惇

 

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

夏侯惇元譲(?~220年:かこうとん・げんじょう)は、

曹操(そうそう)と同じく、豫州(よしゅう)沛国(はいこく)

譙県(しょうけん)の出身です。

 

曹操の父の曹嵩(そうすう)が、夏侯惇の父の弟で曹操とは従兄弟同士です。

正史に名が出てくるのは、曹操が参加した西暦190年の反董卓連合軍からで、

そこから、曹操が死去する西暦220年まで、途切れる事なく忠義を尽くし

曹操の分身として、特に重く用いられました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徐栄に敗れて兵を集めにいった無名の曹操に従う

曹操 夏侯惇

 

自ら奮武(ふんぶ)将軍を称した曹操ですが、事実は手勢五千名と、

反董卓連合軍で集まった、どの諸侯にも見劣りする小さな勢力でした。

その焦りもあってか曹操は、功を急ぎ董卓(とうたく)軍の名将の

徐栄(じょえい)に挑んで大敗し、仲間と兵力の大半を失います。

 

仕方なく、曹操は揚州まで兵を集めに行きますが、

夏侯惇は当たり前のようについて行っています。

彼が曹操の片腕である事は劉備(りゅうび)における

関羽(かんう)のようでした。

 

実は戦争が下手、呂布に捕まり、劉備には壊滅させられる

夏侯惇 呂布

 

隻眼(せきがん)の武将として、凄味があり戦争の達人に見える夏侯惇ですが、

実は内政向きの文官タイプで大きな手柄は立てていません。

 

濮陽(ぼくよう)の戦いでは、呂布(りょふ)の計略にハマり

一度は捕えられるという大チョンボを起こしますが、

部下の韓浩(かんこう)の機転で救われます。

 

また、西暦199年頃の博望坡(はくぼうは)の戦いでは、

劉表(りゅうひょう)側の武将としてやってきた劉備と戦いますが、

劉備の偽装撤退に引っ掛かり、伏兵に襲われて軍が壊滅、

危ない所を副将の李典(りてん)に救われています。

これも、李典が「伏兵がいるので危ない」という助言を

あえて無視しての大失敗でした。

 

その後は、将帥として多くの将軍を従えるようになり、

彼等を指揮して勝利するようになりますが、夏侯惇個人の

才能は、やはり将軍より文官向きであったようです。

 

最初から別部隊を任され、太守、河南尹を歴任するキャリア

夏侯惇

 

武将としてはイマイチの戦歴でも文官としての夏侯惇は優秀でした。

曹操の配下になった時から司馬を命じられて別働隊を指揮し、

さらに曹操が本拠地の兗(えん)州を得ると、

白馬に駐屯して別軍を率い東郡(とうぐん)太守に任命されます。

 

以後、曹操の勢力が拡大するに従い、陳留(ちんりゅう)太守、

済陰(せいいん)太守と行政官のポストを歴任しました。

 

その後、曹操が献帝を迎えると洛陽の長官である

河南尹(かなんいん)に就任、治水工事なども積極的に行い、

兵士や庶民に模範を見せるべく自ら、もっこを担いで

土を運搬するなど率先垂範します。

 

生涯、曹操とは同僚同士だった

 

曹操が夏侯惇を信頼する事は、肉親同様で、

曹操の寝室に許可なく出入りする事まで許されています。

曹操は、自身と夏侯惇に身分の差は無く対等であるという

不臣の礼(ふしんのれい)を実践すべく、魏王になっても

唯一、夏侯惇には、魏の官位を与えようとはしませんでした。

 

その為に夏侯惇には漢の位しかなく、曹操とは、

献帝の下では肩書の違いはあっても同僚という扱いでした。

夏侯惇は、「畏れ多い」として魏の官位を求めますが、

曹操は「お前は俺の仲間だ」という立場を守り死ぬまで

夏侯惇に魏の官位を与えませんでした。

 

清廉潔白でお金に執着せず、学問好きだった

 

夏侯惇は学問が好きで、前線にも師を呼んで時間の合間を見て

講義を受けたほか、金銭に淡白でお金が余ると周囲に施していました。

 

同族の曹洪(そうこう)が金貸しなどで利殖に励んだのと違い、

夏侯惇は金に困れば人から借金し、後で返すなど利殖をしませんでした。

 

彼は、曹操の死後、これまでの多大な功績から、

三公という最高の行政職の上の大将軍に任じられます。

しかし、それから間もなく、曹操の後を追うように亡くなります。

まさに曹操を補佐し、その分身として生きた生涯でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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