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夏侯惇元譲(?~220年:かこうとん・げんじょう)は、
曹操(そうそう)と同じく、豫州(よしゅう)沛国(はいこく)
譙県(しょうけん)の出身です。
曹操の父の曹嵩(そうすう)が、夏侯惇の父の弟で曹操とは従兄弟同士です。
正史に名が出てくるのは、曹操が参加した西暦190年の反董卓連合軍からで、
そこから、曹操が死去する西暦220年まで、途切れる事なく忠義を尽くし
曹操の分身として、特に重く用いられました。
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この記事の目次
徐栄に敗れて兵を集めにいった無名の曹操に従う
自ら奮武(ふんぶ)将軍を称した曹操ですが、事実は手勢五千名と、
反董卓連合軍で集まった、どの諸侯にも見劣りする小さな勢力でした。
その焦りもあってか曹操は、功を急ぎ董卓(とうたく)軍の名将の
徐栄(じょえい)に挑んで大敗し、仲間と兵力の大半を失います。
仕方なく、曹操は揚州まで兵を集めに行きますが、
夏侯惇は当たり前のようについて行っています。
彼が曹操の片腕である事は劉備(りゅうび)における
関羽(かんう)のようでした。
実は戦争が下手、呂布に捕まり、劉備には壊滅させられる
隻眼(せきがん)の武将として、凄味があり戦争の達人に見える夏侯惇ですが、
実は内政向きの文官タイプで大きな手柄は立てていません。
濮陽(ぼくよう)の戦いでは、呂布(りょふ)の計略にハマり
一度は捕えられるという大チョンボを起こしますが、
部下の韓浩(かんこう)の機転で救われます。
また、西暦199年頃の博望坡(はくぼうは)の戦いでは、
劉表(りゅうひょう)側の武将としてやってきた劉備と戦いますが、
劉備の偽装撤退に引っ掛かり、伏兵に襲われて軍が壊滅、
危ない所を副将の李典(りてん)に救われています。
これも、李典が「伏兵がいるので危ない」という助言を
あえて無視しての大失敗でした。
その後は、将帥として多くの将軍を従えるようになり、
彼等を指揮して勝利するようになりますが、夏侯惇個人の
才能は、やはり将軍より文官向きであったようです。
最初から別部隊を任され、太守、河南尹を歴任するキャリア
武将としてはイマイチの戦歴でも文官としての夏侯惇は優秀でした。
曹操の配下になった時から司馬を命じられて別働隊を指揮し、
さらに曹操が本拠地の兗(えん)州を得ると、
白馬に駐屯して別軍を率い東郡(とうぐん)太守に任命されます。
以後、曹操の勢力が拡大するに従い、陳留(ちんりゅう)太守、
済陰(せいいん)太守と行政官のポストを歴任しました。
その後、曹操が献帝を迎えると洛陽の長官である
河南尹(かなんいん)に就任、治水工事なども積極的に行い、
兵士や庶民に模範を見せるべく自ら、もっこを担いで
土を運搬するなど率先垂範します。
生涯、曹操とは同僚同士だった
曹操が夏侯惇を信頼する事は、肉親同様で、
曹操の寝室に許可なく出入りする事まで許されています。
曹操は、自身と夏侯惇に身分の差は無く対等であるという
不臣の礼(ふしんのれい)を実践すべく、魏王になっても
唯一、夏侯惇には、魏の官位を与えようとはしませんでした。
その為に夏侯惇には漢の位しかなく、曹操とは、
献帝の下では肩書の違いはあっても同僚という扱いでした。
夏侯惇は、「畏れ多い」として魏の官位を求めますが、
曹操は「お前は俺の仲間だ」という立場を守り死ぬまで
夏侯惇に魏の官位を与えませんでした。
清廉潔白でお金に執着せず、学問好きだった
夏侯惇は学問が好きで、前線にも師を呼んで時間の合間を見て
講義を受けたほか、金銭に淡白でお金が余ると周囲に施していました。
同族の曹洪(そうこう)が金貸しなどで利殖に励んだのと違い、
夏侯惇は金に困れば人から借金し、後で返すなど利殖をしませんでした。
彼は、曹操の死後、これまでの多大な功績から、
三公という最高の行政職の上の大将軍に任じられます。
しかし、それから間もなく、曹操の後を追うように亡くなります。
まさに曹操を補佐し、その分身として生きた生涯でした。
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