この記事の目次
- 1ページ目
- 学問好きの青年
- 蜀に仕える
- 媚ず引かず、己を貫く
- 服喪期間中にやってはいけないこと
- 当時の習慣を打ち破ったせいで…
- 服喪期間中に大事件が発生
- 蜀の滅亡
- 2ページ目
- 国と仕事を失い、親不孝者のレッテルを貼られる
- 晋の時代になっても仕事が見つからない
- 晋の文豪・張華に気に入られる
- 孔明好きの司馬炎に孔明の実績を書いた本を見せる
- 後世に残る名著「三国志」を執筆
- 自分の実力不足を痛感し、執筆途中の本を破り捨てる
- 恩人・張華も彼を褒める
- 3ページ目
- 【三国志執筆事件】丁儀・丁翼事件
- 孔明のせいで父親が罰を受ける
- 【三国志執筆事件】馬謖が原因で孔明批判を行う!?
- 【三国志執筆事件】孔明の息子・諸葛瞻も批判
- 政争に巻き込まれ、地方に左遷される
- 4ページ目
- 最大の悪評が待ち受ける
- 親不孝者のレッテルが再び貼られる
- 雌伏の時が訪れるも…数年で名誉回復
- 不運続きの史家の人生が幕を閉じる
- 三国志が不朽の名作となる
- 三国志ライター黒田廉の独り言
【三国志執筆事件】丁儀・丁翼事件
陳寿は正史三国志の「魏書」を書く際に、魏の功臣の子孫や戦場跡を巡って、資料集めをしながら、「魏書」を執筆しておりました。魏の曹操の三男の曹植(そうしょく)には多数の側近がおりましたが、その中にであった丁儀(ていぎ)・丁翼(ていよく)という兄弟が魏におりました。陳寿はこの二人の列伝を立てようと彼らの息子達を取材します。このとき陳寿は公平性をもって記さなければならない史家として、あるまじき発言をします。陳寿は息子達に「米を千石くれたら、丁儀・丁翼の兄弟の列伝を作ってのせてやるよ」と交渉を始めます。丁儀・丁翼の息子達は陳寿の発言に憤慨し、「米を千石払うくらいなら、書かなくていい。」と陳寿の要求をきっぱりと撥ねつけます。この事が公になり、民衆や晋の群臣は「せっかく歴史家として立派な文章を書いたのに、あのように自分の利益しか考えていないとはな」と悪口がささやかれます。しかし彼は三国志の執筆において公平を欠く事件いくつか起こしておりました。
孔明のせいで父親が罰を受ける
陳寿の父親は将校として第一次北伐戦に従軍しておりました。第一次北伐戦の時彼の父親は馬謖(ばしょく)の軍におり、馬謖が孔明の言いつけを守らず山上に布陣したため、魏の名将である張郃(ちょうこう)に敗北。馬謖はこの敗北で孔明に斬られてしまいます。
また陳寿の父親も馬謖軍にいた事が原因で、髡刑(こんけい=髪の毛を剃る刑罰)を受けてしまいます。陳寿は父親に罪がないはずなのに、孔明のせいで父が刑罰を受けたためいい印象を持っておりませんでした。
【三国志執筆事件】馬謖が原因で孔明批判を行う!?
陳寿はこのように父親を罰した孔明にいい印象を持っていなかったため、「蜀書」孔明伝において孔明を批判するような文章を末尾に載せます。陳寿は「孔明は臨機応変に軍を進退させる戦の才能には乏しかった」と書きます(原文は「蓋し応変の将略は其の長けずる所にあらざるや」と優しく書いております。)。そのため後世では陳寿が孔明を嫌っていたのではないかと言われてしまいます。しかし彼は孔明を批判するような文章の前に、しっかりと孔明を褒めたたえております。
【三国志執筆事件】孔明の息子・諸葛瞻も批判
陳寿は孔明の息子である諸葛瞻(しょかつせん)にもいい感情を抱いておりませんでした。どんだけ諸葛一族に恨みを持っているのでしょうね。彼が諸葛瞻にいい感情を抱いていなかったのは、諸葛瞻の部下として働いていた時に、侮辱されたことが原因です。そのため寿は諸葛瞻の伝記の末尾にも「諸葛瞻は名声だけあって、実が伴っていない。」と記しています。この諸葛瞻批判の前にもしっかりと彼を褒めています。陳寿は彼を「書画がうまく、豊富な知識を持っている。また蜀の人は孔明の息子である諸葛瞻をみんな愛していた。」と記しています。そのうえで諸葛瞻の批判的な文章を載せているため、後世から叩かれてしまうことになります。
政争に巻き込まれ、地方に左遷される
陳寿はこのように後世からも色々と叩かれてしまっている可哀想な人でした。また彼は「三国志」を執筆した後、再び彼に不幸が襲うことになります。恩人である張華は、陳寿が素晴らしい歴史書を残した事を褒めた後、彼を出世させようとします。しかし張華は荀彧の一族で荀勖と仲が悪く政敵の間柄でした。張華は陳寿を出世させようと試みましたが、荀勖(じゅんきょく)の妨害により陳寿の出世は行われないばかりか、陳寿は地方に飛ばされてしまいます。しかし彼は母親が高齢であった事が幸いして、左遷から逃れることができました。
【次のページに続きます】