三国志の時代は敵国に対して圧倒的な兵力を有している国が非常に有利です。
そのため魏・蜀・呉はそれぞれ工夫を凝らしながら、兵力確保を努めます。
では一体これらの国々はどのようにして、兵力確保に努めていったのかをご紹介します。
この記事の目次
まず人口を見てみよう「後漢中期」
まず三国志の各国の兵力確保の政策を知る前に、人口がどれくらい当時の中国に居たのかを
調べてみたいと思います。
後漢の中頃には中華の人口は約5000万人ほどいたそうです。
魏志倭人伝における日本は弥生時代に入ったばかりで、当時の日本の人口はたったの
60万人ほどしかいなかったそうです。
それと比べると中国の人口の多さは以上かつ非常に発達した文明を持っていたことが分かります。
三国時代に突入すると一気に人口は減少
さて後漢中期には中国の人口は5000万人ほどおりましたが、黄巾の乱から三国鼎立時代までに
一気に人口は減少します。
なんと三国鼎立時代に突入した時は中国の総人口は500万人にまで減少します。
その原因は戦乱で多くの群雄が争ってしまったことが原因であります。
そのため中国では多くの変化をもたらすことになります。
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人口の激減によって起きた変化
後漢中期から三国鼎立時代に至るまでに10分の1までに減少した中国の総人口。
減少した結果多くの変化を中国各地でもたらすことになります。
変化その1:土地が荒廃して農作物が取れなくなってしまいます。
変化その2:土地の荒廃による生産量の激減
変化その3:兵糧不足
これらの変化によって三国の国は物凄く苦労する羽目になってしまうと同時に、
兵力確保を行わなくてはなりませんでした。
さて今回の本題である魏・蜀・呉はどのように兵力確保に努めたのでしょうか。
兵力確保に努めた国々「魏のパターン」
魏は三国一の領土を持っておりましたが、中身は人口が少なくどの都市もスカスカでした。
このような状況でどのように兵力確保に努めたのでしょうか。
屯田制と兵戸制を併用
魏は曹操が採用した屯田制と兵戸制を合わせて行く政策をとります。
屯田制は戦時状態にない兵士を利用し、辺境に駐屯している兵隊で農業を行う政策です。
この政策を取ったことで、人口が激減した中原において、生産力を低下させることなく
兵糧を補充することに成功。
また兵戸制は兵士が死ぬまで兵隊として生きることを義務付けられる事になりますが、
その代わりにこの制度によって組み込まれた兵隊は土地を政府からもらって生活を保障されることになるため、
家族が飢える心配がなくなります。
こうした制度を併用することで、兵力不足と生産力不足を補って三国時代を戦い抜いていきます。
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呉・蜀は同じ制度である「兵世制」を採用
呉と蜀は同じ制度を実施しております。
その制度は「兵世制(へいせいせい)」と呼ばれる制度です。
この制度は国家の君主(蜀でいえば劉備・劉禅。呉でいえば孫権)と
諸豪族の結びつきの強さによって兵隊の数が変わる制度です。
諸豪族と結びつきを強くすることで豪族が抱える兵隊の数は多く拠出してくれますが、
君主が豪族を優遇することを怠れば、豪族は不満に思い兵隊を多く出すことをしないでしょう。
また君主が亡くなると豪族との結びつきも亡くなってしまうため、
新たな君主は豪族と再び強いきずなを結びなおさなくてはなりません。
このような脆弱な制度を取り続けていたことが、呉・蜀滅亡の原因の一つではないのかと考えられます。
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三国志ライター黒田廉独り言
今回は三国時代の国々がとった兵制についてご紹介しました。
ついでに魏・蜀・呉の動員兵力は諸説ありますが大体の実数は
魏=25万程。
呉=15万程
蜀=10万程
であったとされており、赤壁の戦いで100万を号する曹操軍というのはまったくあり得ない話で、
創作であったことが分かります。
兵力差や人口の減少、兵制についてわかるとかなり三国志を深く読めるのではいのでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
じかいもまたはじさんでお会いしましょう。
それじゃ~またにゃ」
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