この記事の目次
益州へ進軍する準備を行う
劉備は張松(ちょうしょう)の申し出を受ける決意を固め、法正(ほうせい)が劉備の元へ
やってくると「益州奪取を行うことに決めました。」と伝えます。
法正は劉備の言葉を聞くと大いに喜び、「ありがとうございます。
早速張松へ伝えたいと思います。次に来るときには益州へ進軍する準備を
しておいてください。」と伝え、益州へ帰っていきます。
劉備は法正に益州へ進軍することを伝えると早速、益州へ連れていく軍勢を編成。
劉備軍の中核として長年支えてきた、関羽・張飛・趙雲は編成から外し、
劉備の軍師としてその名を天下に知られるようになった
孔明も益州へ連れていく事をしませんでした。
なぜ彼らを連れていく事をしなかったのでしょうか。
荊州で新たに加わった将軍を出陣させる
劉備は益州の劉璋から警戒させないようにするため、
あえて歴戦の武将である関羽・張飛・趙雲らを外して、
新たに仲間として加わった黄忠・魏延・龐統など天下に名を知られていない
人材を率いていく事にします。
こうして軍の編成と荊州に残る人材を決めた劉備は、法正達が来るのを待ちます。
益州へ進軍開始
劉備は法正がやってくると黄忠や魏延、龐統ら数万の軍勢と共に益州へ向かいます。
劉璋は益州へ劉備が入ってくると知ると、自ら出向いて宴会を行います。
この宴会は100日も続き、劉備を大いにもてなします。
そして宴会が終わると大量の兵糧を劉備に進呈し「劉備殿。漢中にいる張魯討伐の件
何卒お願いしますぞ」と丁寧に依頼をした後、成都へ帰っていきます。
劉備はその後漢中と益州の境目で張魯と対峙するふりを行います。
龐統の献策
劉備は劉璋が帰ると龐統に「益州に侵入することができたが、
この後どうすればいいのか。」と尋ねます。
すると龐統は「最良の策はこのまま一気に成都へ向けて軍を発するべきで、
次の策は劉璋の将軍を殺害し、兵力を奪った後に成都に向けて進撃するべきです。」と
進言します。
劉備は龐統の作戦を聞き、二番目に提案してきた策を採用すると、
すぐに砦を守っている劉璋の将軍達に会いに行くと彼らを殺害して、
兵力を奪った後、成都へ向けて進軍を開始。
こうして劉備は益州の各城を陥落させながら、益州の州都である成都へ向かいます。
龐統が亡くなり、荊州へ援軍を要請
劉備は龐統の作戦を採用して益州各地の城を順調に攻略していきますが、
益州の要衝である雒城(らくじょう)攻略戦の時、
龐統が流れ矢に当たって亡くなってしまいます。
劉備は龐統の死を大いに悲しみますが、雒城を何とか攻略することに成功しますが、
雒城攻略戦の時に多大な犠牲を払ってしまったため、
兵士の数が少なくなってしまい、すぐに荊州へ手紙を送り援軍を送るように要請します
孔明は劉備の手紙をもらうと張飛や趙雲を援軍として送り、
孔明も自ら兵を率いて出陣します。
張飛・趙雲・孔明はそれぞれ別の道を通って成都へ向かっていきます。
こうして荊州の援軍を得た劉備は益州の州都である成都を包囲します。
劉璋降伏し、益州を手に入れる
劉備は成都の包囲を完了させると、涼州の「錦馬超(きんばちょう)」として
知られる馬超が益州に来ている事を知ります。
劉備は馬超を傘下に加えるため、李恢(りかい)を派遣して馬超説得を行わせます。
馬超は李恢の説得を受けて劉備軍に参加し、
劉璋が籠る成都城は四方から包囲される事になります。
劉璋はこの包囲された状況を打開する方法を模索しておりましたが、
劉備の挙兵当初から付き従っている簡雍(かんよう)は、
成都城へ入って劉璋に劉備に降伏するよう説得。
劉璋は簡雍の説得に応じ、劉備に降伏することを決意し、
成都城の城門を開いて劉備に降伏します。
こうして益州は劉備が領有することになり、中華は天下三分を形成していく事になります。
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