この記事の目次
関羽の復讐を誓う
劉備は関羽が呉の裏切りによって亡くなったとの報告を受けると、
大いに怒り呉を討伐すると決意を露わにします。
趙雲は劉備に「呉を討伐するのは間違っておりません。
しかし今は呉の裏切りに報復することを耐えて、魏を先に討つべきです。
魏を討伐し滅ぼせば、呉はおのずと降伏してくるでしょう。」と進言します。
劉備は趙雲の反対意見に何も言わずに無視します。
またほかの臣も劉備の呉の討伐に反対意見を示しますが、
この臣は牢屋にぶち込まれてしまいます。
皇帝に就任する
魏の曹操が亡くなり曹丕(そうひ)が曹操の跡を継ぎます。
彼は魏の二代目の君主となると、漢の皇帝から皇帝の位を禅譲(ぜんじょう)され
魏の国家が成立し、曹丕は魏の初代皇帝となります。
劉備は曹丕が皇帝を称すると、劉備も曹丕に対抗して皇帝へ就任します。
そして皇帝に就任すると臣下に「数年以内に必ず呉へ復讐を行う。
この出陣は決まった事で、反対することは認めない」と強い言葉で、決意を示します。
こうして呉へ攻撃する事を決めた劉備は、兵士をしっかりと訓練するように
将軍達へ通告します。
こうして着々と呉へ攻撃を行う準備を行っていく事になります。
最後の兄弟・張飛死す
張飛は関羽の弔い合戦を行うべく、厳しく兵士に訓練を施しておりました。
しかし張飛の訓練は非常に厳しく、何人もの死者が出ていました。
劉備は張飛の訓練が厳しすぎることに不安を感じ「益徳(えきとく=張飛の字)。
兵士の訓練が厳しすぎる。もう少し手を緩めて行え。」と注意を促します。
張飛は劉備の言葉を聞き流し、厳しい訓練を兵士達に与えていきます。
この厳しい訓練に耐え切れなくなった張飛の部下達は、
彼が寝ている隙を付き殺害。
張飛を殺害した部下達は、そのまま蜀を抜け出して呉に逃亡してしまいます。
劉備は張飛が亡くなった事を知り、大いに落胆。
しかし呉に復讐を果たす事を目的として、訓練に励んでいきます。
呉へ侵攻を開始
劉備は皇帝の位に就いてから一年後、ついに呉へ侵攻を開始します。
永安から西に向かって、呉の領地へ進軍し、次々と呉の城を攻略していきます。
こうして呉の領土奥深くに侵入し、向かう所敵なしの状態でした。
しかし呉の陸遜は呉の各地を守っている守備兵たちに「劉備軍が攻撃を仕掛けて来たら、
城が陥落寸前に陥っても援軍は送らない。やばくなったら逃げてこい。」と伝令を出します。
呉軍は守備している城が陥落寸前に陥ると、すぐに退却していきます。
劉備はそうと知らずに呉の城をガンガン陥落させていきます。
夷陵の大敗北
劉備はこうして呉の奥深くに侵入していき、夷陵の地で駐屯し、
この地で堅固な長陣を築き、呉軍の出方をうかがいます。
陸遜は蜀軍が寝静まって夜になると、兵士に薪を持たせて蜀軍の長陣へ
火をつけて回ります。
この火は大変な勢いで、蜀軍の陣を火炎で包み込んでいきます。
劉備軍はこの火計によってズタズタにされてしまい、
連携が取れず大混乱になってしまいます。
劉備は何とか撤退に成功し、命からがら永安へ到着します。
この戦いで劉備軍の大半の兵は、やられてしまうばかりか、
優秀な文官である馬良(ばりょう)など多くの将軍が亡くなってしまいます。
夷陵の敗北によって病を得る
劉備は何とか白帝城へ逃げ込むことに成功しますが、
夷陵の戦いでの心労が出てきて、病に倒れてしまいます。
しかし彼は呉の遠征に反対した孔明(こうめい)や趙雲(ちょううん)などの
諸将を呼ばずに病を治すために療養に励んでおりました。
だが彼の病は療養して回復するどころか、どんどん進行して行き、
瀕死の状態になってしまいます。
この危険な状態になり、ついに孔明や李厳、劉禅を呼び遺言を残す決意をします。
孔明との駆け引き
劉備は李厳・孔明・劉禅を呼ぶと孔明に有名な遺言を残します。
彼は孔明に「もし私の息子である劉禅に国を引き継ぐ才能がなければ、
君に国を引き継いでもらいたい。」と伝えます。
劉備はなぜ孔明にこのような言葉を言ったのでしょうか。
それは孔明に「国を引き継いでもらいたい」と言う事で、
孔明が劉禅に取って代わられないようにするために、このように伝えます。
この言葉を聞いた孔明は大いに涙を流して、「私の才能の限りを尽くして、
劉禅様に仕えます」と劉備の前で誓います。
この誓いを聞いた劉備は満足そうにうなずくとそのまま息を引き取ります。
三国志ライター黒田廉の独り言
劉備が蜀を建国するまでをご紹介していきました。
分かりやすく説明するため、細かい所は省略しております。
蜀の事や劉備の細かい事を知りたい方ははじさんを呼んでみてください。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじさんでお会いしましょう
それじゃまたにゃ~」
関連記事:リアルな正史三国志の特徴って?ってか正史三国志は需要あるの?