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実は鐘会はマザコンだった!人生を狂わせた母の愛

2016年9月12日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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自分を無視した嵆康を讒言して殺す

 

 

嵆康(けいこう)は、高名な文人で鐘会も憧れていましたが

嵆康は目もくれず鍛治に熱中して無視していました。

その事を恨んだ鐘会は、嵆康が親友の呂安(りょあん)が告発されたのを

弁護した時に難癖(なんくせ)をつけて、嵆康を死に追いやりました。

鐘会のドス黒い部分が全開になっていきます。

 

 

「ふっふっふ、俺は凄い、俺は偉いんだ!

もうママンに言われた通りに大人しくなんかするもんか!

俺を無視するヤツはドイツもコイツも陥れてやるんだ!」

ただ、腹黒い鐘会は表面上、謙虚な振る舞いを続けたので、

それに騙される人はいましたが、司馬昭の妻の王元姫(おうげんき)

辛憲英(しんけんえい)は、鐘会の腹黒さを見抜き、

「あいつは、いつか、とんでもない事をやる」と周囲に漏らしています。

 

蜀の征伐を司馬昭に命じられ野心が燃え上がる・・

姜維

 

西暦262年、司馬昭は、蜀の姜維(きょうい)

度々魏の鄧乂(とうがい)に敗北した事を踏まえ、蜀漢の征伐に踏み切ります。

そして、厚く信任している鐘会を鎮西将軍、仮節、都督関中諸軍事(ととくかんちゅうしょぐんじ)に任命します。

蜀討伐の総大将であり、まだ37歳の鐘会は鼻高々です。

 

こうして遠征し魏の支配下から離れると鐘会の横暴は、ますます酷くなりました。

曹操のボディーガードだった許褚(きょちょ)の息子の許儀(きょぎ)は、

この時、進軍ルートを管理する仕事でしたが、鐘会は馬に乗っていて

桟道(さんどう)を踏み外し、落馬してしまいます。

 

「誰だァ!道路をちゃんと整備しておかないヤツは!

俺様に無様な真似をさせやがって!許さん死刑だ!!」

 

部下はびっくりして、許儀は重臣の許褚の息子だから、

せめて死罪だけはお許し下さいと懇願しますが、鐘会は、

 

「親が誰だろうと仕事のミスとは関係ない、死罪だ首はねよ!」

 

と許さず、許儀を処刑してしまいました。

 

下の者には丁寧にしなさいという母の言葉を敢えて無視した行動です。

 

働きが鈍いという理由で諸葛緒の兵を没収

 

鐘会の蜀討伐軍は、鐘会が10万人、鄧乂が3万、

そして諸葛緒(しょかつしょ)という特に諸葛亮や諸葛瑾とは

関係なさそうな人が3万人保有していました。

 

この諸葛緒には、これといった手柄もなく、姜維を補足せよと命じても

出し抜かれる始末なので、鐘会は怒り、緒から兵を取り上げて、

罪人護送車で魏に送り返しました。

 

「このぼんくらめ!俺の仕事を邪魔するなら魏に帰れ!

お前の手勢だけは、もらっておくぞ!」

パワハラ鐘会に諸葛緒は抗議も出来ず、

特に悪い事もしてないのに囚人の扱いで魏に戻されます。

でも、諸葛緒はラッキーでした、もし、そのまま同行していれば、

成都で鐘会と共に死ぬ事になったでしょう。

 

正反対の境遇の鄧乂が活躍し、鐘会の嫉妬の炎が燃える

 

ただ、もう一人の副官である鄧乂は有能でした。

鐘会とは正反対、貧乏人からの叩き上げで、

吃音(きつおん)のハンディをモノともせず司馬懿に

農政官僚として見出され、姜維にも何度も勝利しています。

 

剣閣に姜維が立てこもり、魏軍が攻めあぐねると鄧乂は、

リスクを冒して断崖絶壁を毛布にくるまって飛び降り、

険しい山道をショートカットして、成都に迫ったのです。

 

頼みの諸葛瞻(しょかつせん)も綿竹関で破られた劉禅(りゅうぜん)

あっさり降伏、ここに蜀漢を滅ぼす大手柄は、副官の鄧乂のものになります。

 

「うぬぬぬ・・俺が蜀を攻め滅ぼして、ちやほやされる予定だったのに

鄧乂の野郎、美味しいトコだけ持っていきやがって、、許せん

ある事、無い事、都に告げ口して(おとしい)れてやる!!」

ここで、再び、鐘会のドス黒い性格が燃え上がります。

 

鐘会、鄧乂の勝ち気な性格を利用し、罪に陥れる

 

鄧乂は勝ち気な性格で、独善的な所がありました。

蜀を滅ぼすと、勝手に劉禅を王に封じたり、蜀の内政を整備したり、

大船を建造して呉を攻める準備を開始します。

 

それは、司馬昭が許可した事ではなく、司馬昭は不信感を持ち、

手紙で真意を問いただしますが、鄧乂は、将軍は戦地に出たら、

主君の命を聞かない事もありますと返信します。

 

三国志の魏書鍾会伝の注に引く「世語」によると、

ここで鐘会は、二人の手紙を偽造して仲違いするように

仕向けたという話があります。

鐘会は、人の筆跡をコピーできるという犯罪的スキルがあり、

それを活用したというのです。

 

二人の仲をこじれにこじれさせてから、鐘会は第三者を装い

「鄧乂は謀反を企て、蜀の王になろうとしています。

今の内に手を打つべきでしょう」

 

と司馬昭に手紙を書いて、許可を得て鄧乂を逮捕し、

再び罪人扱いで魏に送り返し、その兵力を丸ごと手にいれました。

 

ああ、何と言う姑息な手段、ママンがあの世で泣いてるぞ・・

 

鐘会、、天下を狙うも裏切りで倒される

 

こうして、鐘会は、手持ちの10万に諸葛緒の3万、鄧乂の3万、

それに降伏した姜維の5万の兵力を吸収して21万の大兵力を手に入れます。

 

「はっはっは、何もかも計画通り、俺は蜀で独立して魏を滅ぼす!

もし、しくじっても漢中を堅く守れば、劉備のように一角の王には成れよう

鐘会王国だ!俺はママンの奴隷(どれい)じゃない世界の王だ!」

 

こうして、ドス黒い野望を爆発させた鐘会は、姜維と組み、

自分の独立に反対しそうな魏の武将達を宴会に呼び出して

残らず捕え監禁してしまいました。

 

そして、魏と蜀の将兵に向かい、魏の郭皇太后が司馬昭に殺され、

その遺言として司馬氏を討てと勅命を下されたと嘘をつきます。

 

どうでもいいですが、鐘会、どこからどこまでも人フンです。

こそこそ、策を弄しないで、自分の名前で何かする

という所がないのでしょうか・・

 

しかし、鐘会の権勢もここまででした、監禁された胡烈(これつ)という人が

様子を身に来た部下に対して、

「鐘会は用が済んだら魏の将兵は皆殺しにするつもりだ」

 

と吹き込んだのです。ただでさえ人望が無い鐘会、例え事実無根でも、

魏の将兵は「鐘会ならやりかねない殺られる前に殺れ!」で一致団結。

 

魏軍は鐘会に襲い掛かり、鐘会は応戦しますが多勢に無勢、

謀反仲間の姜維と共に、殺されて果てました、享年40歳、、

 

自分を縛り続けたママン、張菖蒲が死んでから7年後の破滅です。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

鐘会の人生は、大きく二つに分けられます。

教育ママだった張菖蒲の下で、善良な役人という仮面を被って過ごした

33年と、母の死後、ドス黒い野望のままに生きた7年です。

 

結婚していなかったり、子供が無かったり、母を讃える異例の

記録を残すなど、鐘会には教育ママ、張菖蒲の影が色濃く残っています。

鐘会には陰謀家の側面があり、どうもジメジメして見えるのは、

その母への複雑なコンプレックス故かも知れません。

 

或いは、母は、息子の心の内にある傍若無人な性格や、

度外れた野望を察知していて、それを矯正しようと厳しく接して、

それが逆効果になったのかも知れません。

 

鐘会が稀有(けう)な名将である事は疑いの余地はありませんが、

遂に心を修めるという儒教の根本が鐘会には根づかなかったのです。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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