王元姫(おうげんき)とはどんな人?司馬昭の妻となる道理を重んじる女性

2017年3月31日


 

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ろひもと

 

ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志の裏側」のコーナーです。

 

三国志って何

 

三国志演義と正史を比べるとあまりにも描かれ方が違うので戸惑う場合があります。

例えば今回取り上げる王朗(おうろう)などがいい例でしょう。

三国志の世界の入り口が「三国志演義」の場合が多いので、

どうしても三国志演義で描かれるキャラ設定が強く印象に乗っています。

私もそのひとりです。

この王朗は三国志演義では脇役のなかの脇役ですが、皆さんご存知でしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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会稽太守の王朗

会稽太守の王朗

 

王朗の名前が登場するのは、孫策が呉で独立勢力となるときになります。

袁術の配下だった孫策は袁術から兵を借りて、長江以南を攻めます。

揚州刺史だった劉繇、そして呉の許貢、厳虎、

最後に会稽の王朗を破り、江南一帯は孫策の領土となるのです。

(正史では王朗を倒してから厳虎の順です)

要するに孫策の踏み台にされるだけの存在ですね。

かなり簡単に孫策にやられるので、

シュミレーションゲームにおいても「雑魚」扱いされていました。

死んだと思っていたら生きていて、いつの間にか魏に所属しており、

完全に忘れたころに登場して諸葛亮孔明に戦場で舌戦を挑んで負けます。

こうしてゲームユーザーから見向きもされないとてつもない雑魚キャラと化すのです。

 

本当は凄い王朗・その1

黄巾賊

 

正史での王朗は一味違います。

黄巾の乱が起こる前年に王朗は名門・

袁氏の袁隗に呼ばれて地方の県令に任ぜられます。

地方の振興を図るためです。

そのために中央から優秀な人材が送られることになったのです。

王朗は若くして徐州彭城国肢菑丘県の県令になりました。

このとき同時に呼ばれたのが劉繇、趙昱、臧洪という将来を期待された面々です。

この当時、州や郡とは違い「国」は皇帝の直轄地で国相が治めていましたが、

彼らは皆、宦官の縁戚ばかりでした。

汚職政治の象徴です。

それを善しとしない王朗は早々に辞表をだして県令を辞めます。

そして徐州刺史の陶謙にその才能を認められて仕えることになるのです。

反董卓連合が結成されたときに王朗は陶謙に進言し、朝廷に金品を献上させます。

陶謙は安東将軍に出世し、王朗は会稽太守に選ばれました。

 

よかミカンのブラック三国志入門

 

本当は凄い王朗・その2

孫策

 

会稽太守となった王朗は袁術配下の孫策に攻め込まれ、抵抗するのですが、敗北します。

捕らわれましたが、殺されることはありませんでした。

袁術が皇帝を自称し、曹操が献帝を保護した時期に、

孫策は王朗を曹操のもとに送り出します。

使者として王朗は許都を訪れました。

王朗は孫策の実力をありのまま曹操に伝えます。

曹操は孫策を認め、結果、孫策は討逆将軍となりました。

 

孫策

 

そして政略結婚によって孫策との姻戚関係を持つことも考えるようになるのです。

諸侯と同盟を結ぶことがほとんどない曹操にしては珍しいことです。

王朗から聞いた話がそれだけ曹操に響いたのでしょう。

その後、儒学を重んじる王朗は、実直な働きぶりを称賛されて朝廷でどんどん出世していきます。

そして三公である司空や司徒にまで登りつめるのです。

 

王朗の子孫たち

王朗の子孫たち

 

王朗は曹操だけでなく、皇帝となった曹丕や曹叡にも進言しています。

魏を代表する重臣となったわけです。

家督を継いだ息子の王粛も曹叡や司馬師といった政治の中心にいるリーダーたちに助言しています。

王朗の清廉潔白さはどうやら息子たちにも受け継がれたようです。

この王粛の娘が、司馬昭の妻となる「王元姫」です。

彼女もまた道理を重んじる人だったそうです。

王元姫は司馬昭の子を産みます。

その子が三国志を終焉させ天下を統一させる「司馬炎」なのです。

つまり王朗の子孫が天下を統一することになります。

   

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

あの王朗の子孫が天下を統一するなんて、皆さん知っていました?

そう考えると王朗は、三国志の中でもかなり重要なメンバーのひとりといえるのではないでしょうか。

政治力だってもっと評価されてもいいはずです。

王朗は脇役ではなく、雑魚キャラでもないのです。

どうして三国志演義ではこうも扱いが雑になったのでしょうか。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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