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蜀の桟道とは?蜀へ至る過酷な山道はどのような経緯で誕生し、今はどうなったの?

2021年12月26日


 

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漢中王になる劉備

 

劉備(りゅうび)が蜀を建国した益州(えきしゅう)の地は「天然の要害」といわれ、簡単には侵略できない土地でした。東の荊州(けいしゅう)から益州に入るには長江を遡らなければなりません。北から益州に入るにはそびえたつ山脈を越えなければならなかったのです。

 

祁山、街亭

 

その山々には山道のようなものは無く、「桟道」と言われる道を通過しなければなりませんでした。今回はその「蜀の桟道」について探ってみようと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「蜀の桟道」の場所は?

祁山、街亭

 

「蜀の桟道」は関中から益州の中心都市「成都」へ抜ける道の事を言います。狭義での「蜀道(しょくどう)」は成都から北へ約450キロ区間を示しています。広い意味では成都から「金牛道」を経て、秦嶺山脈を越える約1000キロの道を指します。関中と成都の間には2000メートル級の山々が連なっており、成都に向かうにはこれらの山を通過しなければなりませんでした。

 

その為に作られたのが「蜀の桟道」です。とても険しい道であることから「蜀道の険」とも言われます。その道は崖に穴をあけ、そこに杭を打ち、その上に木または石の板を置くことで作られました。その山道はとても細く、危険でした。有名な桟道には「金牛道(きんぎゅうどう)」「故道(こどう)」「陝西道(せんせいどう)」などがあります。

 

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「蜀の桟道」の成り立ち

三国志 蜀の桟道(街亭)

 

蜀の桟道は秦の恵文(けいぶんおう)(在位紀元前338年〜紀元前311年)の時代に作られたと言われています。恵文王は蜀の地域に独自の文化を持っていた「巴蜀(はしょく)」という国を征服しようと計画しました。

 

八甲田雪中行軍遭難事件(雪山)街亭

 

しかし、その地域は天然の要害、険しい山道に囲まれ、容易にたどり着くことが出来ません。そこで恵文王は策を練りました。友好の証に、蜀の王に「金を産む牛」の像を贈る事にしたのです。しかし、その像を運ぶには蜀の山道は険しすぎます。そこで蜀の王は現在「金牛道」と言われる桟道を建設したと言われています。その道を使って恵文王は蜀を征服することに成功しました。

 

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劉邦、桟道を焼く

項羽

 

時代は進み秦時代の末期です。この時代には秦への反乱が相次ぎ、中でも項羽(こうう)はその反乱の中心として活躍していました。

 

項羽と劉邦

 

しかし、反乱軍の中で劉邦が力をつけ、項羽を脅かすようになっていきます。そこで項羽は劉邦(りゅうほう)を蜀の王に任じます。これは昇進と見せかけ、劉邦を中央から遠ざけるためでした。

 

左遷される劉邦

 

ちなみに蜀地方は中国から見ると「左」に位置しているので劉邦を「左」に「遷す(移す)」でこのエピソードは「左遷」の語源と言われます。蜀の地に左遷される際、劉邦は軍師「張良(ちょうりょう)」のアドバイスに従い、なんと桟道を焼いてしまいました。これは項羽に「東に攻め込むことは無い」という意思表示と外部への情報漏えいを防ぐためでした。しかし、のちにこっそり桟道を修復させ、東へ進軍することになります。

 

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三国志の時代の桟道

三国志 剣閣のお城

 

三国志の時代、劉備が蜀漢を建国すると、桟道は重要さを増しました。魏からの防衛と、北伐での進軍で度々利用することになったのです。諸葛亮(しょかつりょう)は「剣門」の地に新たに桟道を建設し、要塞を築いて「剣閣(けんかく)」と呼びました。そこは蜀防衛の最重要地点となります。

 

仲の悪い魏延と楊儀

 

また、魏延(ぎえん)楊儀(ようぎ)の争いの際、魏延が楊儀の退路を断つために桟道を焼いています。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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