西暦234年に死去した名将・潘璋(はんしょう)を今回はピックアップ!
西暦234年といえば蜀の中心人物である諸葛亮孔明が五丈原で亡くなった年です。
魏では青龍元年にあたります。
呉では建興十二年です。
この年には後漢最後の皇帝である献帝も亡くなっています。
ちなみに陳寿の生まれた翌年にもあたります。
西暦235年にはローマで軍人皇帝時代がはじまりました。
兵士から叩き上げの皇帝マクシミヌス・トラクスから始まり14人の皇帝が擁立されていきます。
そんな時代に光を失ってこの世を去ったのが呉の名将・潘璋(はんしょう)です。
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この記事の目次
潘璋(はんしょう)、字は文珪
西暦196年(建安元年)は呂布(りょふ)が徐州の牧となった年であり、
曹操が献帝を許都に迎えた年です。
孫策はまだ健在で、この年に王朗が太守を務める会稽郡を攻略します。
孫策の弟である孫権は、未だ15歳ほど。
それでも兄の威光により陽羨県の県長(知事)を務め、
また孝廉の資格を認定され、茂才に推挙され、奉義校尉(部隊司令)を代行しています。
ここで孫権に仕えようと動いた人物がいました。兗州東郡に生まれた潘璋、字は文珪です。
孫策が暗殺され孫権が跡を継ぐのが西暦200年(建安五年)のことですから、
潘璋は運良く勝ち馬に乗る形になります。
宝払いを豪語するルフィのような人物
若い頃の潘璋は貧しかったそうです。
酒好きで素行の悪い潘璋はツケで飲むことが多く、
支払いを要求されると出世払いするからと豪語していました。
その剛胆な性格を孫権(そんけん)には好まれ、本当に出世していきます。
民衆もその魅力に惹かれたのか募兵にも成功します。
潘璋はその兵を率いて異民族である山越族の征伐を行います。
揚州を本拠地とする孫家にとって勢力を拡大、安定させるために、
そこに住む異民族である山越族の吸収が必要不可欠でした。
呉志によると呉の軍隊に編入された山越の兵士は十五万人以上。
実に呉の軍隊の半数にあたります。
山越族との戦争で出世した潘璋は別部司馬となります。
劉表との戦いでさらに出世
市場を取り締まる役で活躍した後、西安県長となった潘璋は、
略奪しに進軍してくる荊州刺史の劉表の軍を撃退し武功をあげます。
さらに隣県に赴任し反乱を鎮めました。
これにより潘璋は武猛校尉に出世します。
人心を掌握するのが上手だったようで、逃散した民を呼び集め、
兵数を鎮圧する前の数よりも増やして呉に凱旋したと云います。
曹操との戦いでさらに出世
西暦215年(建安二十年)、孫権は曹操の領地である合肥を攻めて大敗します。
約十万の兵で一万に満たない曹操軍に敗北するのです。
呉の名将である陳武、宋謙、徐盛と曹操軍の前に破れていくことになります。
このとき曹操軍の大将が泣く子も黙るという張遼(ちょうりょう)です。
潘璋は後軍にあって張遼に怯えて退却する味方の兵を督戦し、命令に従わない兵を斬り殺します。
この圧力によって孫権軍は陣を立て直すことができたのです。
この功によって潘璋は偏将軍となります。
さらに死去した猛将・甘寧の兵を引き継ぎます。
関羽との戦いでさらに出世
西暦219年(建安二十四年)、北進する蜀の関羽を攻め、関羽や関平、趙累らを生け捕りにします。
この武功により潘璋は固陵郡の太守となり、振威将軍、溧陽侯に出世します。
さらに西暦222年(黄初三年)関羽の敵討ちのために来襲した劉備を迎撃し、
夷陵の戦いで戦功をあげて平北将軍、襄陽太守にまで登りつめました。
西暦229年(太和三年)に孫権が呉の皇帝に即位した際には右将軍に任じられています。
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裏では強欲さを発揮
もともと強欲な性質の潘璋は、
出生した後も経済的に豊かな兵士や民衆から金品を略奪していたと伝えられていますが、
その功績から孫権は目をつむっていたそうです。
実際に戦闘における潘璋の活躍は目をみはるものがあり、
数千の兵力で実に一万の兵以上の働きをしました。
なぜこのような性格の人物が孫権から愛され、兵たちから信頼されたのかは謎です。
ハングリー精神の塊のような武将であり、人間味豊かなひとだったのかもしれません。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
伝わってくる素行は最悪ですが、実力は折り紙付きです。
戦いに敗れたという話は一切残っていません。
もしかしたら呉の最強の武将かもしれないのです。
なにせ関羽、劉備、張遼とぶつかって成果をあげているのですから。
もっと注目されてもいい人物なのかもしれませんね。
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