赤眉軍(せきびぐん)とは何者なの?後漢演義最強のDQN軍団

2016年10月20日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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恩賞の領土が貰えない事で、赤眉は再び叛く

 

 

しかし、赤眉軍幹部は、ただ列侯に封じられただけで、領土が貰えない事に苛立ちます。

王莽を倒した更始帝は、すでに天下を取ったつもりになったのか、皇帝として、

贅沢三昧に耽り、政治は側近に任せて放置していました。

 

おまけに、各地には、まだ更始帝の支配に従わない農民反乱軍や独立勢力が、

うじゃうじゃいて、とても天下を統一して領土を定めるどころではありません。

一方で濮陽に残した赤眉の兵力は、食糧が乏しくなった事で、脱走兵が増えていました。

 

更始帝に見切りをつけた、樊崇等は洛陽を脱出して濮陽に帰り反旗を翻しました。

赤眉軍は、まず頴川に入りここで軍を二つに分け、一軍を樊崇と逄安が率い、

もう一軍を徐宣、謝禄、楊音が率いて別個に進軍を開始します。

 

第一軍の樊崇軍は長社、宛を攻略、徐宣軍は陽翟(ようてき)と梁を攻略して

更始帝側の河南太守を斬り、更始帝の軍勢を撃破しつつ快進撃を続けていきます。

しかし、連戦連勝の赤眉軍でも、果てしない戦争に一般の兵は疲れ果てていました。

 

兵士たちは、見慣れぬ土地に不安を覚え、戦争を辞めて東へ帰ることを訴えますが、

樊崇らは、東へ戻れば望郷心から軍が崩壊すると判断し、あくまで兵士を騙し、

長安へ進攻する方針を変えませんでした。

 

西暦24年の冬、樊崇軍は武関から、徐宣軍は陸渾(りくこん)関から、

それぞれ三輔(長安を含めた周辺地域)へ進入し、翌年1月には

弘農郡で両軍が合流する事が出来ました。

 

赤眉軍、劉盆子を皇帝に立て、更始帝を滅ぼす

パンドラの箱 漢王朝

 

赤眉軍はさらに更始軍を撃破して、華陰まで到達します。

ここで、突然、従軍していた巫女がトランス状態になり、

「劉氏宗族を天子に立てよ」と言い出しました。

 

赤眉軍は、わけがわからず困惑しますが方陽(ほうよう)という男が進言します。

 

「更始帝を滅ぼしても、劉氏の皇帝を立てなければ人民は従いません

ですので、是非とも劉氏宗室の者を擁立して、軍の正統性を確保すべきです」

 

赤眉軍諸将はよく分りませんが、、

「ほぉ~そんなもんだべか、いっちょ話してみるべェ」と協議し

 

周辺で劉氏の血筋の人間を探し出す事にしました。

こうして、劉邦の庶子の末裔にあたる3兄弟を選び、くじ引きをした結果

劉盆子(りゅうぼんし)という牛飼いをしている15歳の少年を皇帝に擁立しました。

 

劉盆子は「皇帝にならないなら殺す」という脅しを受け、泣く泣く即位します。

 

赤眉はさらに、柄にもなく王朝らしきものを造り、徐宣を字が読める事から

丞相にし、樊崇は、文盲である事から、仕方なく御史大夫になっています。

 

西暦25年の9月、更始帝の部下ながら、猜疑心が強い更始帝に恨まれた

張卬が寝返り赤眉軍に加わります。

そして、勝手知ったる張卬(ちょうこう)が手引きする事で長安はあっさり陥落。

更始帝は単騎で逃げますが、赤眉の降伏勧告に応じて玉璽を劉盆子に返還し

ここで更始帝の世は、たった3年で終結します。

 

DQN軍団、略奪の限りを尽くし、食糧を食いつくすと西へ向かう

地球

 

長安を制覇した赤眉軍ですが、行政能力などないDQN軍団には、

高度な統治など不可能で、ひたすら資本を食いつぶすのみでした。

長安の富は、兵士達の略奪の対象となり、長安とその周辺は数十万に膨れた

赤眉軍にイナゴのように食いつくされます。

そして、西暦26年の春、すべてを喰いつくした赤眉軍を率いて、

樊崇は、西へ食糧を求めて進んでいくのです。

 

しかし、その道のりは甘くありませんでした。

安定郡では群雄の隗囂(かいごう)に敗れ、さらに退却中に大雪に見舞われ

多くの将兵が凍死、食糧を求める事を断念して長安に帰る決意をします。

 

その頃、長安には光武帝より派遣された大司徒の鄧禹(とうう)がいました。

鄧禹は、赤眉が戻った事を知ると、一時、廃墟と化した長安を逃れます。

長安に戻っても食糧などないので、赤眉はさらに二つに別れ、

逄安が主力を率いて別行動を取ります。

 

主力が移動した事を知った鄧禹は、長安に攻め込みますが

留守を守る謝禄に撃退され撤退します。

 

ところが、食糧を求めて別行動を取った逄安は京兆尹で延岑(えんしん)、

李宝(りほう)に撃破され、兵力十万人を失って望みは断たれてしまい、

いよいよ、兵士の東へ帰るという要求を拒否できなくなった、樊崇達は

東へ逃れる決意をします。

 

自由への逃避行も叶わず、赤眉軍消滅

 

西暦27年、赤眉兵は故郷へ帰れるという思いだけを士気に変えて、

東進を食い止めようという鄧禹の軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走します。

しかし、赤眉の逃走経路の崤底(こうてい)で馮異(ふうい)率いる漢軍にぶつかり大敗。

ここで、力尽きた赤眉軍は散り散りになり事実上消滅します。

 

幹部である樊崇らは何とか宜陽へ逃れますが、ここでも光武帝が率いる漢の大軍に

正面を防がれ、にっちもさっちもいかなくなり、ついに樊崇は、

徐宣以下30人と共に上半身を脱いで降伏しました。

 

後漢演義ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

赤眉は、王莽の新を滅ぼすまでは、山賊集団とは言え半面では民衆の側にいましたが

その後は、存在意義もなく、ただ、樊崇達、幹部の出世の道具のような扱いでした。

破壊力だけはケタ違いで、度々、ライバルを破ってはいますが、最期は食い詰めて

ちゃんと訓練した漢軍に敗れて消滅するなど、山賊然とした集団から抜け出す事は

出来なかったようです。

 

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