彼を調べている間に一つの疑問が浮かび上がります。
実は曹叡(そうえい)、誰の息子なのかはっきりとしません。
果たして魏の二代目皇帝曹叡は一体誰の息子なのか、色々と調べてきました。
前回記事:曹叡(そうえい)とはどんな人?曹丕の息子で二代目魏の皇帝
曹叡の生まれた年が合わない
陳寿は正史三国志の「魏書」明帝記に「240年の春、帝である曹叡が亡くなる。
年齢は36歳であった」と記しています。
曹叡の生年を調べるため、没年と年齢から逆算して
生まれた年を考えなくてはいけません。
さて曹叡が亡くなった年は240年ですから、年齢である36を引き算すると、
204年に生れた事になります。
この204年に生れた事で、彼の出生があやふやになってしまうのです。
204年に何があったのか
204年に一体何があったのでしょうか。
204年は曹操(そうそう)が袁氏の本拠地である鄴を陥落させ、袁家の三男袁煕(えんき)を処断。
曹操はこうして河北統一の足掛かりを作ります。
この時曹丕も父と共に出陣。
彼は鄴城に一番乗りを果たし、絶世の美女と噂されていた甄氏(しんし)を
手に入れ、彼女を204年の8月に正室にした後、子を産みます。
その子が曹叡になるのですが、おかしくありませんか。
曹叡は確か陳寿が書いた「魏書」には240年に亡くなったと記されていました。
死亡した年から逆算すると204年に生れているはずです。
甄氏を正室にしたのは204年の8月ですから曹丕の息子が年内に生れる事は
絶対にありえません。
では曹叡は一体誰の子供なのでしょうか。
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袁煕の息子説
では曹叡の父親は一体誰なのでしょう。
当時甄氏は袁煕の妻であった為、彼の子供を身ごもったまま
曹丕に嫁いだのではないでしょうか。
そうすれば曹叡が36歳で亡くなっても何ら不思議はありません。
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