孔明の最期の晩餐は一体何を食べていたの?

2016年11月18日


 

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孔明過労死

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、西暦234年の8月23日に五丈原で没したとされます。

 

清廉で質素を貫いた孔明ですが、その最期の晩餐はどんなものだったのでしょうか?

様々な書籍からkawausoが推測してみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明の食事の光景

曹操 劉備 呂布 酒

 

三国志の時代において宴会の描写は数あれど、野戦の食事の様子はまず見ません。兵士が御飯を食べていないわけはないんですが、ありふれた戦場の食事風景を、記録に残そうという考えは誰にも浮かばなかったのでしょう。

 

孔明と司馬懿

 

しかし、その中でも孔明については食事の事を尋ねる司馬懿(しばい)によって、その食事風景が僅かではありますが垣間見えるのです。

 

魏晋世語(書類)

 

晋書 高祖宣帝懿紀において、司馬懿が蜀の使者に尋ねます。

 

「諸葛孔明殿はどのようにお暮らしか。どのくらい食事を摂っておられるか」

 

それに使者は「三、四升です」と答えています。

 

三~四升とはどの程度の量なのか?

宴会マナー 酒

 

現在の一升は1・8リットルですから、そのまま換算すると、三~四升では、5・4リットルから7・2リットルです。グラムで換算すると、6キログラムにもなります。

 

毎日、こんなに食べていたら、孔明は食べ過ぎで死にます。

 

兵糧(食料)を管理する任峻

 

実際は後漢時代の一升が200mlらしいので、それで換算すると、当時の三~四升は600mlから800ml、炊いた米にすると最大で計算して680グラムです。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

お茶碗一杯のご飯が140グラムなので、凡そ五杯分、カロリーベースだと1175キロカロリーにしかなりません。成人男性は、一日通常、2000キロカロリーを消費しますからデスクワークとは言え、孔明はこのままでは痩せ続ける公算です。

 

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戦場では何を食べていたのか?

伊尹 料理人

 

平和な時の城内なら、お金さえあれば、牛、豚、羊、狗、猿、豚、どのような食材でも手に入ったでしょうが、戦争、それも野戦ともなれば、贅沢は言っていられないというのが実情だったと思います。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

野戦は常に戦場が移る可能性もあり、水のある所に布陣はするでしょうがそれが充分である保証はありません。そうなると、大量の水を使う食材は、そうそう調理できないでしょう。

 

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竈は城内の物より遥かに貧弱である・・

料理人

 

春秋戦国時代の斉の名将軍、孫臏(そんびん)は魏の龐涓(ほうけん)を欺く為に、対陣中、日ごとに兵士が使う竈(かまど)の数を減らし斉兵が脱走していると見せ掛けて龐涓の油断を誘っていますが、これはつまり、当時の兵士の竈が簡単に解体できる、石を幾つか積んだだけの粗末なモノだった事を意味しています。

 

孔明のテントがある野外のシーン

 

竈の造りが粗末という事は、薪を多く使い火力は上がらないという事になります。そうなると、簡単に火が通り、当たったりしない食材が求められます。薪だって布陣する場所によっては、得るのが難しい場合もあるからです。

 

光武帝の苦難に戦場食のヒントが・・

光武帝(劉秀)陰麗華

 

しかし、古代の文献を見ていると、これは野戦に最適ではないか?という穀物が出てきました。それが、後漢の光武帝が、河北で王郎(おうろう)に追いまくられていた頃に、配下の馮異(ふうい)が探してきた豆粥や麦飯です。

 

光武帝劉秀part2 03 劉秀

 

豆粥の豆は小豆で、前の日に一日水に漬けておけば柔らかくなり煮込んで20分では煮崩れしてしまう程です。麦飯は、一時間ほど水を吸わせて膨らませ15分蓋をしないで煮てそれから15分蓋をして蒸らすと御飯のように仕上がります。

 

何より逃げ回っている光武帝が食事としている位ですから、どちらも造るのに手間が掛らない食材といえるでしょう。特に孔明は祇山(ぎざん)の麦を当てにしていたという記述もあり、麦飯は食卓に上った可能性が高いです。

 

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麦飯のお供、塩葱

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

麦飯は漢の時代から食べられるようになったようですが、その副菜には、しょっぱい塩葱が使われたそうです。一種の漬物で、周の時代から中国では、韮(にら)や菁(かぶ)、葵(はくさい)、芹(せり)、筍(たけのこ)などを酢で漬けて、夏でも腐らないようにしています。長期保存が効きますし、なかなか取れないビタミン類も、漬物から取れるので、これは野戦の中でも運んできたと考えられます。

 

あまり食卓に上らなかったであろう肉類

劉備 呂布 肉取り合い

 

北伐時の蜀軍は、大半が秦嶺山脈の峡谷をくぐる行軍なので、輸送に牛や馬はあまり使えず、もっぱら人力だったと思います。途中に山岳民族の村を通過すれば、家畜類を調達して、牛や豚、家鴨や鶏なども食べられたかも知れませんが、そんな村に、頻繁に出くわすとも思えません。

 

張飛とkawauso

 

武将達が索敵や、周辺探索の途中で、たまたま捕えた、獣や鳥が食卓に上るというのが自然だと思います。

 

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以上の事から考える孔明の献立・・

孔明

 

上記の事を加味して考える孔明さんの最期の晩餐は、

 

・麦飯、一杯+付け合わせの塩葱、

・豆粥、一杯

・韮や葵、筍の漬物

・酢を抜いた菁の羹(あつもの:スープ)

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん04 哀

 

ま、貧しい、、、でも、一日の食事が三~四升なら、これくらいの食事でも充分、お腹一杯になりますね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

野戦ではありませんが、辺境で万里の長城を守る兵士に支給されるのは通常、麦だけでした。それ以外の食材は、お金で買うか取ってくるというのが普通だったのです。将軍や幹部クラスなら、それよりはマシでしょうが、それでも、調理に難がある、野戦ならそこまで凝った料理は出なかったのではないかと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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