日本で一番すごい武将?敵中を突破して帰国した猛将・島津義弘の武勇伝




太史慈 孫策

 

三国志では武勇に優れた人がたくさん出てきます。呂布・張飛・関羽・馬超・甘寧・張遼など多くの武将が一騎討ちで敵を倒して、武勇でその名を天下に轟かしております。

 

日本の戦国時代の武将達も一騎討ちで敵を倒している時もありますが、三国志のように有名ではありません。しかし日本の戦国時代では戦の指揮能力や智謀でその名を轟かせた武将が多くいます。

 

今回は日本最強と言っても過言ではない猛将・島津義弘の武勇伝をご紹介しましょう。

 

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西と東に大名が別れた時、島津は・・・・

豊臣秀吉 戦国時代

 

豊臣秀吉は全国に割拠する大名を討伐したり、外交によって味方に引き入れたりしながら天下統一に成功。

 

弟である豊臣秀長(とよとみひでなが)や千利休(せんのりきゅう)達や五奉行である石田三成らの官僚、徳川家康を筆頭にした五大老と言われる人々の活躍によって、天下は一つにまとまっていきます。しかし秀吉死後豊臣家内部の争いによって天下は乱れこの乱れを利用して徳川家康が、

 

天下の覇権を獲得すべく動き出します。この家康の動きを察知した五奉行筆頭の石田三成は、徳川家康を倒して豊臣家を守るため西日本の大名達に声をかけて味方を増やしていきます。三成の呼びかけに応じた大名は非常に多く、ほとんどの西日本の大名達が大阪に馳せ参じてきます。

 

この中に戦国時代最強の呼び声高い島津義弘も参加。島津が参加したことを西日本の諸大名は大いに喜びます。

その後三成は徳川家康に宣戦布告を行います。




今なら勝てる!!

織田秀信 wiki

(写真引用元:織田秀信 wikipedia

 

三成はその後織田信長の孫である織田秀信の居城である岐阜城を味方につけることに成功しますが、徳川に味方している東軍の大軍によって陥落してしまいます。

岐阜城陥落を知った家康は江戸を経って東軍諸将と合流。

 

義弘は徳川家康が西軍に合流したことを知ると日が落ちてかから三成へ

「三成殿。いま西軍に夜襲を仕掛ければ、間違えなく勝てるでしょう。」と進言します。

 

彼と同じことを進言しに来た宇喜多秀家(うきたひでいえ)も大賛成。しかし三成はこの進言を取り上げることをしませんでした。

義弘は「戦機を逸してしまった」と甥の豊久(とよひさ)に愚痴をこぼします。

 

西軍VS東軍

炎 s

 

家康は東軍と合流しますが、城から打って出てこない西軍を城から出すためにある作戦を思いつきます。

 

その作戦は三成が籠っている大垣城をスルーして直接大阪城へ攻撃しようとする作戦です。大阪城へ攻撃を仕掛けようとすれば三成も城から打って出なくてはならないであろうと考えた末の作戦です。

 

しかしこの作戦は家康が考えた三成を騙すための流言で、大阪城へ攻撃するつもりは1%もありませんでした。この家康の流言を信じた三成は、大垣城を出て関ヶ原へ移動するように西軍諸将に呼びかけて城を打って出ます。

 

義弘は北国街道の近くに布陣します。そして西軍の先鋒である宇喜多軍と東軍先鋒である福島正則軍が激しいぶつかり合いを開始。義弘は甥の豊久に「我陣へ向かってくる者を攻撃せよ。」と言い渡します。島津の陣営に攻撃を仕掛けてきた東軍の諸隊は島津軍の鉄砲の猛射撃によって、撃退されてしまいます。

 

また味方である西軍の軍勢が島津陣へ近づいてきた時も同様に攻撃して追い散らしてしまいます。

 

西軍の敗北そして島津は?

薩摩藩の島津義弘

 

こうして朝から激しい戦いが関ヶ原の台地で繰り広げられておりました。実働兵力が少ない西軍諸将ですが、東軍諸将の軍勢を幾度も撃退して互角の戦いを繰り広げて

おりましたが、松尾山に陣を張っていた小早川秀秋の軍勢が西軍へ攻撃を仕掛けてきたことがきっかけで、西軍諸将は壊滅的な被害を受けて敗退します。

 

三成は軍勢を捨てて伊吹山へ逃走し、大谷吉継は自害。宇喜多秀家も逃亡してしまいます。

 

こうして関ヶ原の戦いは集結することになるのですが、一隊だけ静かに東軍で溢れかえっている関ヶ原台地から逃げずにいる隊がありました。その隊の旗はマルに十字の旗印を高々とかがげておりました。この隊こそ島津義弘率いる島津軍でした。

 

彼らは関ヶ原の戦いが集結すると急いで陣を払って東軍へ向かって突撃を開始。島津軍は鋭い錐のような陣形で徳川軍を突き破って逃走を開始します。徳川軍は島津軍を追撃するため、四天王である井伊直政と本多忠勝を向かわせます。ふたりの将軍の追撃は半端なものではなく、鳥頭坂(うとうざか)と言われるところに到着したときはたったの200人しかいませんでした。

 

ここで甥の豊久は義弘の身代わりになって追撃を食い止めようとしますが、本多忠勝の軍勢によって討ち取られてしまいます。この豊久はその後別世界に飛ばされてしまうのですが、そのお話はまた今度。

 

家老の身代わり

井伊直政

 

豊久の命をかけた身代わり作戦によって本多軍の追撃速度は鈍ることになりましたが、井伊直政隊の速度は全く落ちることなく義弘軍に全速力で猛追してきます。

 

義弘の家老であった長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)が身代わりとなります。この作戦は効を奏して井伊直政を負傷させたことがきっかけで隊の追撃速度を鈍らせることに成功。しかし盛淳は討ち取られてしまいます。

 

この盛淳と豊久の活躍によって徳川軍からなんとか逃れることに成功した義弘はその後土民に襲撃されたりもしますが、なんとか本拠地鹿児島へ到着することに成功。

 

この島津の退却戦を後世「島津の退き口」と言われて讃えられることになります。

 

戦国史ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

関ヶ原の戦いに参加した西軍諸将の多くは領地を没収されてしまうのですが、島津義弘の凄まじい退却戦のおかげで、島津家は領地を没収されませんでした。

さらに島津は琉球貿易を行う権利を寄越せと徳川幕府に詰め寄ってその権利をゲットします。

 

その後島津家は琉球貿易を行っていくことで国力を増加させ、徳川幕府を倒す原動力となっていくのです。

 

このように考えると島津義弘の活躍がなければ明治政府が出来ていなかったかもしれません。

後世の日本の歴史をも決定づけた島津義弘の武勇伝をご紹介しました。

 

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