【シミルボン】首絞め、兜取り、不意打ち何でもありの三国志時代の一騎打ち

2016年11月26日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」専用コンテンツです。

 

藏覇

 

三国志の最大の華と言えば個性豊かな武将同士の一騎打ちでしょう。

いずれ劣らぬ、男伊達を誇る猛将・勇将が火花を散らして得物を振るうシーンは、

まさに、そこに痺れる憧れるゥ!です。

しかし、冷静に考えて一騎打ちなど本当にあったのでしょうか?

そして、あったとすると、それはどのような戦いだったのでしょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実際には、少なかった武将同士の一騎打ち

郭嘉

 

いきなり夢のない話をしますと、三国志の時代に、

武将同士が名乗りを上げて、戦うなどというルールはありませんでした。

 

当たり前といえば、当たり前で、一軍を指揮する武将が倒されてしまえば、

配下に動揺を与え、いかに優勢な戦況でも覆る可能性があるからです。

武将や将軍は、前線より後ろにいて、全体の戦況を俯瞰して的確な指示を出し、

部下を激励するのが仕事であって、一騎討ちをするのが仕事ではありません。

 



しかし、偶発的に起きた、一騎討ちは存在した

朝まで三国志 公孫瓚

 

ですが、上のケースは通常の戦争の場合であり、たまたま、武将同士が、

遭遇したような時には、その限りではありません。

そんな場合には窮地を逃れるために、双方が持てる技の限りを尽くして、

戦ったのであり、それが結果、一騎討ちになるのです。

 

正史にも記載がある孫策対太史慈の一騎打ち

太史慈 孫策

 

正史に記録があるものとして、最も有名なのは、

呉の孫策(そんさく)と、太史慈(たいしじ)の一騎打ちでしょう。

 

当時、劉繇(りゅうよう)の客将だった太史慈は、

孫策軍の動向を調べようと偵察の為に単騎で出陣します。

そこに、同じ考えで陣営を出た、孫策に出くわしたのです。

 

太史慈は、まさか相手が自分の狙うべき敵の大将とは

夢にも思わず、手取りにしようと戦いを仕掛けます。

孫策も、ここで引いたら男が廃るとばかりに、それに応じて、

馬上において、戟を交える大激戦になります。

 

孫策は、太史慈の馬を突き刺し、太史慈がうなじの所につけていた

手戟を奪い取りました。

ムカッときた太史慈は、しゃにむに前進して、孫策の兜に手を掛けて

これを奪い取ってしまいます。

 

ここで、孫策を心配して追いかけてきた、韓当(かんとう)

黄蓋(こうがい)、宋謙(そうけん)達、13名が合流して、

辺りは大混乱になり、勝負は痛み分けになりました。

こちらは、なかなか記述がリアルであり、

突発的な一騎打ちとして、実際にあった可能性が高いです。

 

 

※参考資料:三国志英傑プロファイル

著者: 光栄 出版社: 光栄

 

馬超がフルボッコ ダークホース閻行(えんこう)

馬超フルボッコ01

 

馬超(ばちょう)は、三国志演義で張飛(ちょうひ)許褚(きょちょ)

一騎打ちした事になっていて、かなり強い猛将と言ってよい存在だと思います。

しかし、史実に残る一騎打ちでは、馬超をフルボッコにした強者がいるのです。

それが、閻行(えんこう)と呼ばれる人物で、彼も涼州出身です。

 

建安年間の最初と言いますから、西暦195年頃、

韓遂(かんすい)馬騰(ばとう)の間で、

涼州の領有を巡る小競り合いが発生します。

そこで、韓遂側にいたのが閻行でした。

 

屈強な閻行は、同じく、豪傑として名高い20歳位の馬超と

一騎打ちになっていきます。

勝負は一方的だったようで、閻行は、馬超を矛で突き刺します。

しかし、鎧に阻まれて、矛は折れました。

 

その衝撃で、馬超も落馬したのでしょう、閻行はすかさず、

折れた矛の柄の部分を掴んで、馬超の背後にまわり、柄で首を締めあげます。

こうして、馬超を苦しめながら、殴る蹴るで、まさにフルボッコです。

 

普通なら、このまま戦死している馬超ですが、馬騰の息子ですから、

すぐさま、援軍が入ったのでしょう、難を逃れています。

 

ちょっと情けない、許褚に睨まれて動けない馬超

馬超021

 

馬超は西暦211年、潼関の戦いで曹操と戦いこれを追いつめます。

曹操は戦線が膠着したので和議を結ぼうと馬超とサシで会談しますが、

馬超はそれを利用して曹操を捕え戦争を終わらせようと企んだ事があります。

 

しかし、曹操はボディーガードの許褚(きょちょ)だけは連れてきており、

許褚に凄い形相でにらまれ続けた馬超は、

ついに曹操を捕まえるという計画を実行できませんでした。

幾らでも言い訳は出来るでしょうが、要は許褚にビビったという事です。

 

 

呂布と郭汜の一騎打ち

裏切り 呂布

 

地味ですが、李傕(りかく)郭汜(かくし)コンビとして括られる郭汜。

彼にも、呂布(りょふ)と一騎打ちをしたという記述が英雄記にあるようです。

 

それによると、董卓(とうたく)の弔い合戦として、やけっぱちで

長安に攻め込んだ郭汜は、今や官軍になりおおせた呂布と一騎打ちします。

しかし、郭汜ごときの武力で呂布に敵うわけもなく、翻弄され、

あと一突きで死亡という所まで追いつめられます。

 

そこに郭汜の部下がわっと助けに入ったので、

呂布は止めを刺せず、多勢に無勢、呂布は、やむなく

長安を放棄して逃げ出しました。

 

一騎打ちでは勝ったけど、戦争には負けたのが呂布の状況です。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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