悲惨!呉のエクスペンダブルズ甘寧のストレス爆発人生を振り返る

2016年11月30日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫権の甘寧への冷淡な扱い3 濡須での無茶ぶり度合い

張遼 カカロットーーーー!

 

濡須の戦いでの甘寧は、前都督として魏軍に怖気づく、部下の都督を叱責して、酒を飲ませ、大いに士気を高めて、夜襲を掛け魏軍を震え上がらせた功積で知られています。ここで孫権は、魏には張遼(ちょうりょう)がいるが、わしには甘寧がいると言い(呉書)いかにも、甘寧は孫権の信任を得たように見えます。ですが、これにしても、呉は序盤で暴風雨により重臣董襲を失っているのです。

 

孫権

 

つまり、孫権は自軍の士気回復の為に、まず魏軍の度肝を抜いて、同時に呉軍の士気を高める必要がありました。しかし、重臣を使い失敗して死なれたら、士気どころか軍は崩壊です。ならば、甘寧を焚きつけ、成功すれば儲けモノ、失敗したら厄介払いと孫権は考えたのです。他所者の甘寧が死んでも呉軍のダメージは少なく、勝てば魏にダメージ、自軍の士気はあがります。それを見越しての孫権の無茶ぶりであり甘寧はそれに見事に応えたのです。

 

孫権

 

(うひょ~使えるな、この鉄砲玉!)

 

孫権が甘寧を張遼に比したのは、うちの鉄砲玉凄いぞ、どんな無茶ぶりでもよけないぞという、甘寧の命知らずぶりに対する賞賛だったのです。

 

ストレス爆発!甘寧が料理人を斬った理由・・

甘寧に殺されかける料理人

 

甘寧は乱暴で殺人を好む危ない人ですが、勇気抜群で財を軽んじ気前がよいので、部下には慕われました。が、ある一定の地位にある人は、その傍若無人を嫌い、心を許そうとはしなかったのです。合肥でも仇敵の凌統と共に、魏の張遼にも劣らぬ働きをした甘寧ですがその評価は相変わらず便利な鉄砲玉に過ぎず、将軍号は雑号で地位は西陵太守でした。ここまでやってれば普通は列侯に叙せられ領地も食邑もある筈なのにそのような記述もありません。六十も過ぎて、一向に出世しない自分に焦っている時、甘寧の料理人がヘマをします。そして、こともあろうに年下で甘寧の上司である呂蒙の所に逃げ込むのです。

 

「てめえ、、俺が呂蒙相手ならビビって手が出せないと思ったのか!」

 

甘寧は怒り、舌打ちしながら、呂蒙に料理人を返して欲しいと頼みますが、甘寧の性格からして返せば、殺すに違いないと思った呂蒙は返しません。腹が立った甘寧は、一計を案じ、呂蒙の母に贈物をして仲介を頼みます。呂蒙は親孝行で有名なので、母をダシに使えば料理人を返すだろうと目論んだのです。

 

策略は的中、母に説得された呂蒙は、絶対に殺さないという約束で渋々料理人を甘寧に返しました。もちろん、甘寧は約束を守らず料理人を木に縛りつけ射殺します。これは、料理人の逃亡が甘寧のストレスと呂蒙を結びつけた非常に不幸な事件だったのです。

 

呂蒙の母激白、殿が許しても私情で同僚を殺してはいけません

甘寧と凌統06 孫権と呂蒙

 

甘寧が約束を破り、料理人を殺した事を知った呂蒙は激怒しました。自分を欺いたのもですが、母をダシに使った事が親孝行な呂蒙には許せません、すぐに船を集め陣太鼓を鳴らして甘寧を攻める準備をします。

 

「甘興覇、貴様は年上故、私も気がねし大目に見てきたが今回という今回は許せぬ、我が役目にかけて成敗してくれる」

 

一方の甘寧は、謝りもせず、船の上で寝てしまっています。異変を知った呂蒙の母は、裸足でやってきて息子に言いました。

 

「息子よ、あなたは殿様に身内のように重んじられているのを忘れてしまったのですか?どうして私情によって仲間同士で争うのです!殿様が、あなたの罪を問わないとしても、あなたは君臣の道を違えた事になってしまうのですよ」

 

しれっと言っていますが、赤字を見ると、孫権が呂蒙と甘寧のどちらを重んじていたか分ります。ここで、呂蒙が甘寧を討っても不問ですが、甘寧が呂蒙を討てば反逆罪という事です、はい、天地の開きですね。

 

呂蒙は思いなおし、自ら甘寧の船に行き、今までのいきさつを水に流し、母の手料理を共に食べようと話かけます。甘寧も、本気で叛く気はないようで、それを聞くと、涙を流し

 

「貴方様にはいつも世話になる」と呂蒙に感謝しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

甘寧は、いつ死んだか、よく分っていませんが、潘璋が軍を引き継いだ時期を考えると215年~219年の間のようです。度々の手柄にも関わらず、甘寧は封侯もされておらず、子孫も優遇される事がありませんでした。それを考えると、孫権にとっての甘寧の評価が分ります。やはり、便利な鉄砲玉、エクスペンダブルズの範疇を出なかったのです。最期まで前線に立ったと言えば聞こえはいいですが、料理人の件といい、甘寧には口には出せない哀しいコンプレックスが常に胸中に渦巻いていたのではないかと思います。それが気性の荒い凶暴な甘寧を生み出したとは言いすぎでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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