李儒(りじゅ)の生まれは、司隷にある馮翊郡とされていますから都近くです。朝廷ともつながりをもっているいわば都会人です。対して董卓(とうたく)の配下は辺境の地で生まれ、異民族を討ち果たすのが仕事という猛者ばかり。朝廷の習わしはおろか、都の暮らしも経験ないものばかりです。李儒には李儒の使い方があり。武辺者たちにはそれに合った使い道というものがあります。
経歴不明謎の軍師:李儒
董卓がいかに政権をまとめていくのかについてのブレイン(頭脳)、それが李儒の役目です。三国志演義のような董卓と李儒の関係であれば実に息がピッタリのコンビともいえます。袁紹(えんしょう)・曹操(そうそう)・孫堅(そんけん)ら諸侯を出し抜く作戦を見事に成功させていきます。
まずは上洛の策略
董卓が涼州から上洛したときに、密かに都内部の人間たちとコンタクトをとっていたのが李儒だったことでしょう。おそらくその役を担えたのは李儒だけだったはずです。
誰に渡りをつけておけば少帝の身柄を確保できるのか、その際に逆らうのは誰か。事前にかなりの分析があったのではないでしょうか。軍事面だけ突出している董卓を踏み台に使ってさらに出世を夢見ていた官吏多かったことでしょうが、ところがどっこい、腐敗政治にどっぷりと浸かっていた人物は董卓の命令でことごとく誅殺されています。
巨大な権力を握っていた十常侍も傍若無人の董卓の前に壊滅していきます。これで新皇帝の献帝は外戚の干渉をうけることなく、腐敗政治の温床ともいうべき宦官からも遠ざけられ、清風一陣の朝廷に座して新しい漢皇室を目指すことになります。
関連記事:実は無能では無かった?少帝が妃と交わした最後の歌が悲しすぎる
関連記事:ええっ?こんなに大変だったの!献帝の東遷を地図で徹底解説
名士を集める
司隷に住んでいた李儒は、「名士のつながり」やその言葉の重みから、名士は組織作りに欠かせない人物だと把握していたことでしょう。董卓は清流派の官吏を牢屋から解き放ちました。そして新しい息吹をもった若いパワーが復興に必要だと、多くの才能豊かな若者を重役に据えていきます。新政権をまとめあげるうえで一番必要だったものは暴力でも兵力でも権威でもなく人の繋がりだったのです。董卓も李儒もそんなに器用にひととの結びつきを作れたわけではありません。失敗も苦労もしたことだと思います。誤解もされたでしょう。しかし蔡邕のように心から心腹した官吏もいたのです。
関連記事:董卓が築城した要塞が絶対防御すぎてヤバイ!郿城(びじょう)とは何?
関連記事:竹林の七賢とは何をしている人たちなの?成り立ちなどをわかりやすく解説
董卓への反乱
しかし董卓への風当たりは非常に強いものがありました。田舎者の董卓の独断政治に徹底的に抵抗しようと叫び合った組織も多かったのではないでしょうか。まさに現在のアメリカ合衆国の大統領選のような様相です。遠く東の地でその声は大きくなり、やがて反乱という形になるのです
関連記事:偶然の遭遇から因縁の仲へ!孫堅と董卓は元同僚だった!?
関連記事:あれほど豪華なメンツが揃っていた反董卓連合軍が董卓に負けた理由
董卓の懐刀、李儒
政権を担うことになると膨大な仕事が待っています。公共事業や異民族などの軍事面の対応、人事面の対応。外交面の対応。そのような細かい作業の計画を建て指示したのが李儒だったのではないでしょうか。秘書長官と呼ぶのがぴったりです。東で大きな反乱が起きても充分にあしらうことができました。多方面で準備を整えていたのが勝因だと思われます。外交交渉も重ねていくつも行っていたことでしょう。敵方を離反させる餌も撒いていたと思われます。こうして考えると李儒はかなりやり手の軍師であり、政治家だったといえると思います。
関連記事:賈詡は一流の政治家でもあった!?降伏の進言をして名軍師と呼ばれた天才の生涯
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
李儒は董卓が暗殺された後に磔にされたという説と、その後も董卓の残党のなかで生き抜いたという説のふたつがあります。どちらにせよ、このタイミングで李儒は表の世界から完全に消えていくのです。三国志のなかで、最初に有能な軍師の価値というものを見い出すことができたのが李儒ではないでしょうか。三国志のゲームでももう少し目立出せてあげたい存在ですね。それだけの政治力は有していたと思います。
関連記事:天地を喰らうという漫画があまりにもカオス!裏三国志入門書 Part 1
関連記事:蒼天航路のココが凄い!三国志を読むならこの漫画!新たな世界観で描かれた新三国志が超絶オススメ!