大きく取り上げられているのは三国志演義だけです。
それも政略面での進言が多く、軍事面・こと戦場においての活躍はほとんど見られません。
仮に李儒が董卓の軍師であり、董卓軍の戦歴に貢献していたとすると想像は膨らみます。
今回は李儒がどれくらい凄かったのか、想像してみましょう。
果たして名軍師と呼ばれる諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)や、
「軍師連盟」の主役である司馬懿(しばい)と肩を並べるような活躍ができるのでしょうか。
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丁原(ていげん)との戦い
皇帝警護の任・執金吾であった丁原(ていげん)は気骨のある武人です。
騎射が得意で、配下にはその後、最強の武将として名を高めることになる呂布(りょふ)がいました。
涼州から洛陽までは気の遠くなるような距離があります。
上洛した董卓は三千の兵しか連れてこられず兵力は不足していました。
そこで、李儒は暗殺された大将軍の何進の兵を自陣に巧みに取り込みます。
なにせ董卓の背後には新帝がいましたから、自然の成り行きを装うことができました。
次は董卓勢力に抗おうとする丁原の対応です。
新参兵をぶつけてみましたが、呂布に軽くあしらわれます。
呂布の武勇に目をつけた李儒は、呂布と同郷の李粛を使者に内応の約束を取り付けるのです。
主簿に過ぎなかった呂布は、主君である丁原を斬って騎都尉に出世します。
丁原の兵と呂布を味方につけて董卓の勢力は一気に大きくなりました。
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反董卓連合との戦い
西暦190年(初平元年)関東の諸侯が袁紹を盟主に立ち上がります。反董卓連合の結成です。
最前線では河内太守の王匤が黄河の河陽津に兵を集めます。本陣はさらに東の陳留です。
李儒はまずこの河陽津の兵を倒すことを進言します。
ここを潰して連合軍の意気を消沈させるのが狙いです。
伏兵を配して、逸る王匤の兵を挟撃します。
王匤の兵は壊滅し、王匤は命からがら泰山に逃げ帰りました。
本陣の袁紹(えんしょう)はこの戦いぶりをみて早期決着を危ぶみます。
対陣が長引くにつれて連合軍の結束は乱れていき、
待ちきれなくなった済北の相である鮑信が抜け駆けします。
賛同したのは曹操(そうそう)です。鮑信(ほうしん)、曹操の両軍は河南伊の滎陽郡まで突出します。
李儒は中郎将の徐栄(じょえい)に策を授けて出陣させました。
勢いに任せて突進してくる鮑信、曹操の兵に対して徐栄は李儒の策通りに伏兵を配して迎撃します。
鮑信と曹操は完全に受け身になり、かつ背後の汴水まで追い詰められます。
曹操は配下の馬を借りて逃げ回り、鮑信は弟を討ち取られます。またも連合軍は敗戦するのです。
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遷都強行
王匤、鮑信、曹操の兵を倒しましたが、連合軍の本隊は健在です。
それに対して洛陽を守るために董卓の軍は東西に大きく伸びていました。
董卓軍にとっては不利な地理ではあったのです。
ここで李儒は革新的な進言をします。
皇帝となった献帝の身柄ともども都を西の長安に移すというものです。
移動距離にして約400㎞。
洛陽にある財宝はもちろんのこと、兵糧から住民に至るまですべてを移すという広大な計画です。
三国志では有名な「長安遷都」になります。
これを連合軍に気づかれずに李儒はやり遂げたのです。
連合軍が気が付いたのは燃えさかる洛陽の都の炎を見たときでした。
時すでに遅し。すべては遥か西方に消え去っていました。
兵糧に問題のあった連合軍はこれより先に兵站を伸ばせずに膠着します。
李儒の目論見は見事に当たり、連合軍はこれより1年の間に瓦解するのでした。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
と、まあ、董卓軍の成功事例をすべて李儒の献策ということで取り上げてみました。
こうしてみるとなかなかの活躍ぶりです。名軍師と呼んでも過言ではありません。
あと取り上げるとすると、あの「連環の計」くらいなものでしょうか。
司徒の王允(おういん)が呂布と董卓の間に離間の策を仕掛けるものです。
李儒は危険視するも見破れずに董卓は暗殺されます。
三国志演義では同時に李儒も刑死することになりますが、
後漢紀によると連座は免れており、李傕によって復職しています。
本当に李儒は王允の策を見抜けなかったのでしょうか?
何らかの理由で李儒が王允に手を貸していたとすると、
連環の計すらも李儒の手柄ということになりますが、さすがにこれは飛躍しすぎですね。
今回は史実に沿って李儒の活躍を想像してみましたが、いかがだったでしょうか。
まったくあり得ない。とはいえないところが歴史の面白いところです。
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