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はじ三の生き字引!kawausoが読者の疑問に答えます

2016年12月23日


 

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kawauso

 

全国3594万人の三国志ファンの皆様、こんばんは!

はじめての三国志ライターkawausoです。

2016年も早いもので、師走ですが、皆さんはいかがお過ごしですか?

もしかして、「美味しいお菓子をあげるよ」とか言う怪しいオジサンに

ついて行ったりしてはいませんか?

さて、はじさんも2年目を過ぎ、3年目を迎えるに当たり、

その記事数も1600を超えてしまいました。

 

関連記事:【三国志あるある】懐かしい!と思った人は40代!昭和では当たり前だった三国志事情

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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多すぎて沈してしまった記事をサルベージ

劉禅

 

さて、1600を超える記事の中には、惜しいかなタグ付け不足や、

検索に掛らないなどで、中々陽の目を見ない記事も少なくありません。

三国志の基礎知識やカテゴリ化されている記事はそうでもないですが、

はじめての変のような雑多な分類に入る記事は、検索を掛けようにも

中々出てこないという事も少なくありません。

 

そこで、本当はあるんだけど、検索の網に掛らず沈してしまった

記事を、はじさんの生き字引、kawausoがサルベージしてみようと思います。

 

読者ちゃんの質問1

kawauso

 

はじめての三国志の読者アンケートには、毎日、様々な質問が集まります。

我々、はじさんの中の人は、その質問に目を通しているのですが、

今回は、このようなご質問がありました。

 

Q:軍師の人たちはどこで勉強したの?学校があったの?

科挙試験なんか受けてたの?知り合い同士が多いってことは

やっぱりそういう学校があったから?

 

実は、この疑問への答えは過去記事にあるのですが、やはり記事が沈してしまい、

なかなか探しづらかったようですので、kawausoからお答えします。

 

中国における公的な学校というのは、前漢の武帝が長安に設置した大学です。

それを拡充して、さらに基礎教育機関を全国に設置したのは

 

王莽

 

前漢を簒奪した反逆者である王莽(おうもう)でした。

 

王莽は、それまでの大学に加えて、郡国には大学相当の「学」という教育機関を設置、

さらに、県、道、邑(ゆう)、侯国にも高等学校相当の「校」という機関を設置します。

この二つを並び称して「学校」といい現在でも日本では使われています。

 

そして、王莽は県よりも小さい単位である郷(ごう)や聚(しゅ)にも

「痒(よう)」や「序(じょ)」という小中学校相当の教育機関を置きました。

 

ただ、注意すべきなのは、これらの公学校で教えたのは儒教だけという点です。

儒教は親には孝行、君主には忠義を尽くす事を教える学問で、

支配者には都合がいい部分が多い学問だったからです。

 

一方で兵法は、個々人で私塾を開いていた人がいて、

その人に弟子入りして学ぶ事が出来ました。

 

李斯

 

三国志の時代では、ありませんが、キングダムに登場する李斯(りし)は、

荀子という人の私塾に学んで法家の思想を磨いています。

 

韓非

 

その荀子の同門には、法家のスペシャリストの韓非(かんぴ)がいて同窓生です。

名高い先生の塾には、全国から優秀な学生が集まりました、

どうしてかと言えば、そのような先生は弟子が学びを終えると、

紹介状を書いたりして、仕官先を斡旋したりしたからです。

ですから、軍師がそれぞれ顔見知りというのも不自然ではありません。

 

それから、当時はまだ科挙は存在せず、人材の登用は土地の有力者の

推薦を得て大守が行っていました。

科挙は唐の時代に始まり、宋の時代から一般化しています。

 

詳しくは、こちらの記事を参照して頂けると、より深く分ります。

 

劉備 曹操

・曹操も劉備もこれで学んだ?漢の時代の教科書と学校

 

三国志大学

・【トラブル続発】後漢の時代の塾は色々面倒くさかった?

 

読者ちゃんの質問2

 

また、読者アンケートには、以下のような疑問もありました。

 

Q2:当時は情報伝達スピードも遅そうなのにどうして

「X先生!お噂はかねがね!」になるのか疑問・・

特に仕官もしてないのに有名な人がいるのはなぜ?

誰がどうやって噂を流してるんですか?

 

こちらも、kawausoが力を入れて書いた過去記事にあるのですが、

やはり検索しづらかったのか、沈してしまうようです。

 

 

許劭 許子将

・許劭(きょしょう)とはどんな人?三国志時代のインフルエンサー

 

劉備

・就職戦線異状だらけ!かなり大変だった三国志時代の就職

簡単に説明しますと、電話も電報もネットもない当時ですが、

十三州ある中国の各地には、人物評価を仕事にしている人々がいたのです。

有名なのは、許劭子将(きょしょう・ししょう:鑑定人間キョショーン)や

水鏡先生のあだ名で知られる司馬徽(しばき)などです。

 

曹操

 

許子将は有名な曹操の「治世の能臣、乱世の奸雄」というキャッチフレーズを

つけた人で、彼に褒められると出世間違いなし、ディスられようものなら

生涯仕官する事は出来ないと言われ、大層畏れられました。

 

後漢の時代の末には、各地の大守は、毎年決まった人数の人材を、

朝廷に推挙する決まりがあり、その参考として、許子将や司馬徽のような

人物鑑定家の意見を重視していたのです。

 

その大きな理由として、大守は推挙した人材がヘマをすると

その連帯責任を取らされる事が多かったのです。

でも、なかなか自分の人を見る目に自信がある人は少ないので、

優秀な人材を次々と敵中させている人物鑑定家に頼るようになっていきました。

 

読者ちゃんの疑問3

 

それから、スリーキングダムに由来した、以下のような質問もあります。

 

Q3:スリキンネタですけど、赤壁の時曹操が近隣住民にあてて

手紙を大量に流していたけれど当時の人は識字率が高かったの?

それとも、あれは、スリーキングダムだけの創作?

 

こちらは繰り返しになりますが、こちらが答えになります。

 

三国志大学 劉備

・曹操も劉備もこれで学んだ?漢の時代の教科書と学校

 

後漢の時代の最盛期には、人口は5000万人いたと言われます。

その中で役人は、三十万人はいたようです。

当時の学校は義務ではありませんが、農民にも門戸を開いていたので

ある程度裕福な農民なら教育を受ける事が出来ました。

実際に王充(おうじゅう)のように平民階級から士大夫になった人もいます。

 

教育という程でなくても、単純に文字が読める程度なら、

もう少しいたと思うので、曹操が手紙を大量に撒いても、

それを読める人は村に一人や二人は必ずいたでしょう。

 

それを裏付ける証拠としては、後漢帝国は、

 

① 郷、亭、市、里、の目につく所に明確に大きく掲げ吏民すべてに読ませよ。

② 扁に胡虜の購賞について記載せよ、二亭ごとに一つの扁を掲げよ。

 

という法律を布告していて、偏(へん)という立て札に広報を載せたり

異民族を指名手配したりしています。

 

これら偏は、県以下の行政単位である郷や里、市場、公共建築である亭に

建てられているので、あまねく隅々まで存在しています。

それは、ある程度の人間は文字を読める事を前提にしないと無意味なので

後漢の時代の識字率がある程度の水準に達していた事が分ります。

つまり、スリキンの話は、フィクションではないのです。

 

曹植

・【週刊文春も驚き】後漢時代のメディア事情はどうなっていた?後漢時代の立て札・扁(へん)

読者ちゃんの質問4

 

また、以下のようなご質問もありました。

 

Q4:曹丕と曹植などえげつない兄弟関係に見える。

逆に劉備の桃園三兄弟の方がずっとずっと仲が良く見える。

中国人は一族以外は皆殺しだけど血族は大事にする

イメージがあるけど実際には、違うのか?

曹丕と曹植には、相続争いがあったし特別変だったのか?

それとも普通に利権が絡めば骨肉でも殺しあってた?

こちらについては、兄弟でも利害が絡めば、骨肉の争いを演じる

というのが回答です。

 

曹丕と曹植ばかりではなく、袁紹の息子の袁譚と袁尚

劉表の息子の、劉琦と劉琮、呉では、孫和と孫覇が骨肉の後継者

争いを演じています。

 

中国人が血族を大事にするのは事実ですが、その前段階として

血族の中に反目が起きれば、外から付け入られる前に、

これを排除しようという意識が働くという事もあると思います。

 

ただ、実際の骨肉の争いは、当人同士というより、

政権継承の中で優位に立とうと考えた家臣達が、それぞれの兄弟達を担いで反目し、

結果、元々は仲が良かった兄弟同士が憎しみ合うという構図が多いです。

以下は参考までに、はじさんのバックナンバーです。

 

袁紹の妃06 袁尚、袁譚

・袁尚(えんしょう)とはどんな人?兄と争ったせいで袁家をつぶしてしまった漢

劉表 三国志 ゆるキャラ

・はじさん基礎知識 55話:劉表のお家騒動に巻き込まれて殺されかける劉備

こちらは、三国志演義のお話です。

 孫権

・とっても地味な孫権の息子達7名を一挙紹介

かあん03 曹植と

・曹植(そうしょく)ってどんな人?正史から彼の一生を見直してみる?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 kawauso 三国志

 

はじさんの記事も1600を超え、なかなか検索を掛けて

一発で探すのは難しくなってきました。

今後も、はじめての三国志では、せっかくの過去記事が沈してしまわないように

検索機能を強化していきますが、読者の皆様も分らない事につきましては、

はじさん読者アンケートにコメントをお願いします。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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