【トラブル続発】後漢の時代の塾は色々面倒くさかった?

2016年3月8日


 

劉備 曹操

 

誰でも義務教育を卒業する日本と違い、今から1800年前、

後漢の時代には、教育を受けられるというのは、出世に直結する特権でした。

その為に、教育の仕組みも、教室の雰囲気も、今とはだいぶ違うものだったようです。

今回は、後漢の時代の私塾の雰囲気を紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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師はめちゃめちゃ偉かった!

三国志大学

 

後漢の時代の教育制度には、現在の国立大学にあたる、太学(たいがく)、

郡国学のような政府が設置した国立、公立の学校もありましたが、

一方では私塾も大流行でした。

 

大体、私塾を開くような師は、元々、高名な儒者で中央政界との

太いパイプを持っているような事も多かったからです。

 

そんな師に学んで、見所があると思われれば、個人的に、

推挙されて、エリートコースに乗れるかも知れません。

三国志に登場する盧稙(ろしょく)も、そんな私塾を開いた人でしたが、

人気爆発で、千人以上も弟子がいたようです。

その中には、劉備(りゅうび)公孫瓚(こうそんさん)がいたのは

周知の通りです。

 

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師に入門するにも、先立つ物が必要

劉備玄徳 三国志と肉

もちろん、私塾に通うにも、無料というわけにはいきません。

束脩(そくしゅう)の礼と言い、一定の金銭を支払う必要がありました。

元々、束脩は干し肉の束を意味していましたが、

時代が移ると、内容は贈物に変化していきます。

 

それなら、大金を包めば、特別扱いされそうなものですが、

儒学者は建て前上、金銭を卑しむので、露骨にそういう事をするのは、

逆効果になる可能性もありました。

 

私塾は、広く学問を教える為に儒者が開くので、

原則、束脩の礼を済ませば誰でも入門できたのですが、

あまりに入門者が多かったり、入門者の素行が悪いと、

師の都合で入門を拒否されるケースもありました。

 

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ガッカリ・・入門しても、師には教えてもらえない?

 

さて、晴れて私塾に入門した、これからは、師の授業を受けられる

と張り切っても、そうは問屋が卸しません。

そもそも、人気がある師の所には、数百、場合によっては

千名を超える入門者がいるわけです。

巨大な講堂があるわけではあるまいし、師がそれだけの入門者に

直接、学問を教えるような事はありませんでした。

 

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入門者にもランクがある、弟子、門生

荀彧 はじめての三国志

 

では、私塾に入った入門者は、最初は誰に教わるのか?

と言うと、それは師の弟子にあたる人に教わるという事になります。

入門したばかりの門生では、師が教える学堂に入る事も出来ず、

師から教えを受けた弟子に、これを習うという事になるのです。

 

弟子というのは、師から、特別に目を掛けられた優等生であり、

時には、師の代わりに授業を行う事もありました。

日本でも江戸時代には、塾頭(じゅくとう)と言って、

弟子の中でも特に優秀な人物が、師に代わり塾内の風紀を取り締まったり、

授業をしたりというような事がありましたが、それに似ています。

 

折角入門しても、師に親しく接するには、弟子という立場に

なるしかないという事で、人気の私塾に入ってコネを掴むのも

中々大変だったようです。

 

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師の前には、御簾(みす)が掛かり、質問は許可されないと出来ない

朝まで三国志 劉備

 

そんな風に、めちゃエラい師ですから、もちろん授業でも、

学堂の中の一段高い場所に座り、直接姿が見えないように、

四方は、御簾で囲まれていました。

 

当時の授業は素読と言い、黒板など使わず、師の後に続いて

古典の文章を読み上げるモノや、或いは、師が文章を読み上げるのを

ひたすら黙って聴くというスタイルで、途中で質問など、一切許されません。

 

一通りの素読が終わった上で、はじめて質問が許されますが、

膝を突き合わせての親切な指導など、どこにもありません。

師に教えてもらう以外に、自分でも予習、複習をしないと、

授業についてゆくのは、難しかったでしょう。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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