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2017年も、はじめての三国志を宜しくお願い致します。
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さて、お正月がおめでたいのは、実は三国志の時代も同じでした。
そこで、新年一発目のはじさんでは、曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)、
孫権(そんけん)がどんなお正月を送っていたのか?
三国志時代のお正月を紹介してみたいと思います。
この記事の目次
当時のお正月は夜が明けてから・・
三国志の時代のお正月は、もちろん旧暦です。
ですから、現代の感覚では、一月の下旬から、二月の上旬になります。
当時は、正月という呼び名で固定されておらず、歳旦、正旦、元辰、歳朝等、
色々な呼び方があったようです。
今では、時計の普及で時間が正確に分るので、午前零時を回ってから、
除夜の鐘と共に、HAPPY NEW YEARですが、
三国志の時代はそうではなく、夜明けを待ってお正月でした。
三国志魏志によると、夏侯淵(かこうえん)の子である夏侯威(かこうい)が、
四十九歳の年を越えたら長生きすると占い師に言われ用心していましたが、
奇しくも四十九歳の12月の上旬に大病に罹り、危篤状態になりますが、
幸い12月下旬には病状が、やや回復しました。
夏侯威は、その年の大晦日に
「これで鶏が鳴いたら、私は五十歳だ」と喜んだという記述があり、
当時、正月と加齢のタイミングが夜明けであった事を伝えています。
しかし、夏侯威、残念な事に、これで気が抜けたのか、
大晦日の深夜に再び容体が急変し、夜明けを前に亡くなってしまいました。
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夜が明けると同時に、青竹を火に投げ入れて爆発させる
現代の中国でも春節の爆竹は有名ですが、これも三国志の時代にはあります。
それも、現代の爆竹よりも危険で、火を焚いて、その中に青竹を投げ込み、
破裂させるという文字通りの爆竹だったのです。
もちろん、火薬が燃焼するだけの現代の爆竹と違い、
当時のソレは青竹ですから、破裂した竹が飛んでくる事もあります。
今よりもずっとデンジャラスでした。
一説によると、大晦日には、人間をさらって食べてしまう鬼が
山から降りてくるので、それを追い払う為に爆竹を鳴らし驚かした
という事が、爆竹の起源なのだそうです。
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崔寔の「四民月令」から見る正月風景
後漢の崔寔(さいしょく)が豪族の歳時記を記した四民月令によると、
お正月になると、まず宮中で夜明け前に新年を告げる鐘が鳴らされます。
こう聞くと、どうしても現在の除夜の鐘をイメージしますが、
当時、お寺のような鐘は宮廷には、無いと思うので
銅鑼のようなモノが鳴らされたのではないでしょうか?
鐘が鳴り、夜が明けると、一族の先祖を祀る廟(びょう)の前に、
その家の老若男女全てが尊卑に関係なく集まって座り、
家長が先祖の霊に対し酒を勧めて、降臨を願うという儀式を行います。
これが済むと、今度は家長に対して、子供、孫、曾孫の順に酒を勧めます。
つまり、今、生きている人間だけではなく、降りてきた先祖の霊と、
生きている子孫が共に新年を祝うという儀式なのです。
この儀式が済むと、人々は着飾って、近所の友人、知人、恩師、
町の有力者に新年の挨拶まわりをします。
「今年も宜しくお願いします」という意味合いですが、
日本でも地域によってはこのような風習が残る所もあると思います。
これは、後漢時代の田舎の平均的な正月風景なので、曹操や劉備も
それぞれの家で、同じような事を行ったと思います。
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宮中のお正月では、臣下が皇帝に贈物をした
さて、庶民生活は別として、宮殿に仕える士大夫は
お正月をどう過ごしたのでしょうか?
晋書には、漢の時代の宮中の正月の様子が記録されています。
それによると、正月には、まだ夜が明けきらない間に新年を祝う鐘が鳴らされ、
宮中に仕える人々は、松明を片手に厳かに宮殿に参内しました。
しかし、この時、臣下は手ぶらで向かう事は出来ません。
皇帝に捧げる贈物を持参しないといけませんでした。
贈物は、地位によって異なり、千年程先の元代の記録では、
公や侯は璧(へき)という軟玉で造り上げた玉を捧げ、
給与、二千石以上の臣は、丸焼きにした羊、千石、六百石は雁(かり)、
四百石以下は雉(きじ)の肉を持参したという事です。
なんだか、イメージでは、皇帝からお年玉チックに
臣下に何かくれそうですが、実際には逆だったんですね。
ただ、臣下には、後に皇帝から返礼の品を与えられたようで、
一方的に贈物をするだけで終わりではなかったようです。
この中で、二千石以上の人々は、昇殿して万歳を唱えました。
万歳とは、一万年の意味で皇帝の長寿を願う言葉です。
皇帝は臣下からの贈物を納めると宴会を開始しました。
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宮中での宴会の様子とは・・
宴の始まりは、また厳かなものでした、まずは、臣下の代表として、
三公である、司徒(しと)、司空(しくう)、太尉(たいい)が
璧を捧げ持って殿上に上がり北面して席に座ります。
どうして、北に向かって座るのかというと、それは皇帝の象徴が、
北極星であり、皇帝はそれを背負うので必然的に南向きになるからです。
当時の王宮もことごとく、南に向いて建てられているのも、
全く、同じ理由によります。
次に九卿の一つである太常(たいじょう)が祝辞を述べ、三公が平伏。
そこに、皇帝が入ってきて、玉座に座ると改めて、三公が璧を献上します。
その後、百官が、それぞれ酒杯を手に皇帝に酒を勧め、司空が羹(あつもの:スープ)、
大司農が飯を持ってきて皇帝に勧め、それを合図に音楽が鳴らされ、
宴が始まるという順序で、正月の宴は、夕方まで続くのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
やや細かい話をしますと、曹操は、西暦196年から、
208年までは司空なので、その間の正月は、曹操が羹を持って
献帝に勧める様子が許では、見られたのではないかと思います。
劉備も西暦200年頃までは、左将軍、三品、中二千石で、
曹操の配下として献帝に仕えていたので、正月の宴会に出ていた事でしょう。
激しい生命のやり取りをする戦の合間ですから、正月は、曹操も劉備も
それなりに楽しかったのではないかと思います。
「ああ、何とか新年まで生き残った・・」
そんな感慨を覚えたのではないでしょうか?
曹操も劉備も、宴が引けて、自宅に帰れば、それぞれ、
友人、知人、師への挨拶まわりが待っていて、曹操も他人行儀に、
夏侯惇や郭嘉に「新年あけましておめでとう」的な事と言っていたのかと思うと
何だか微笑ましいですし、せっかちだったと言われる曹操なら、
立場上、何百人にも挨拶しないといけないので、
さぞかしイライラしたのでは?などと考えてしまいますね。
さて、本日のはじさんは、ここまで、、
皆さま、よい新年をお過ごしください。
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